村上春樹とフォークナー(1) 「響きと怒り」
前回まで村上春樹氏の小説「ダンス・ダンス・ダンス」に書かれた「雪かき」について書きました。

ダンス・ダンス・ダンス (講談社文庫) - 村上春樹
今日は話変わって,第15章にでてくる文章から。
僕はコーヒーを飲み,新聞を読んだ。どうも最近僕は女の子を怒らせてばかりいる。どうしてだろう? 運が悪いだけなのだろうか。それとももっと根本的な原因があるのだろうか?
たぶん運が悪いだけだ,と僕は結論を下した。そして新聞を読んでしまうと,フォークナーの『響きと怒り』の文庫本をバッグから出して読んだ。フォークナーとフィリップ・K・ディックの小説は神経がある種のくたびれかたをしているときに読むと,とても上手く理解できる。僕はそういう時期がくるとかならずどちらかの小説を読むことにしている。それ以外の時期にまず読まない。(以下略)
フォークナーの小説ファンの私にとって,とても面白い文章です。
フィリップ・K・ディックはSF小説作家で,読んだことはないのですが,彼が書いた原作の映画化「ブレードランナー」や「トータル・リコール」は見ました。
この主人公は精神安定剤でもあるかのようにフォークナーの「響きと怒り」の文庫本を持ち歩いています(笑)。
私は30年以上前に買ったものを持っています。この文庫本は最近見かけません。

今だと,この文庫だと手に入りやすいか。高いけど。

響きと怒り (講談社文芸文庫) - ウィリアム・フォークナー, 高橋 正雄
なぜ主人公の「僕」は神経がくたびれたときに,フォークナーを読むのか?
フォークナーの小説は難解なものが多く,とくに「響きと怒り」は4章あるのですが,日付は行ったきり来たり,視点もばらばら。
各章の最初にはそれがいつの出来事か,カレンダーがついています。
第1章は1928年4月7日。語り手は知的障害を持つベンジー。
第2章は1910年6月2日。語り手はベンジーの兄クウェンティン。
第3章は1928年4月6日。語り手はクウェンティンの弟ジェイソン。
第4章は1928年4月8日。客観的多元描写。
この小説は,上記の他に妹のキャディを含むコンプソン家の崩壊への物語。
難解極まりないのですが,これがフォークナーの小説の魅力でもあります。
ちなみに,この「響きと怒り」の原題は The Sound and the Fury。

The Sound and the Fury - Faulkner, William
タイトルはシェイクスピアの「マクベス」第5幕第5場からとられたとされます。
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
人生は歩く影に過ぎない,下手な役者
出番の時は舞台の上で派手な身振り大きなため息もつくのに
終わるとふっといなくなる。
人生は白痴の語る物語,響きと怒りに満ちているが
そこには何の意味もない。
「人生は歩く影」が有名なところですね。
「マクベス」の「白痴の語る物語」の部分が第1章の知的障害を持つベンジーの語りと一致します。
でも,こんな小説を持ち歩いている人なんかいるかなあ。
でも,小説とは何でもありの世界。
そういう小説を持ち歩いている人が主人公の世界の物語。
主人公が語るように,神経がくたびれたとき,「響きと怒り」いかがですか?
おそらく,もっとくたびれてしまいます(笑)。
*記事のタイトルですが,前回までは村上春樹氏と敬称をつけましたが,フォークナーと対等に村上春樹としました。
というか,作家名がたまたま本名と同じということです。

ダンス・ダンス・ダンス (講談社文庫) - 村上春樹
今日は話変わって,第15章にでてくる文章から。
僕はコーヒーを飲み,新聞を読んだ。どうも最近僕は女の子を怒らせてばかりいる。どうしてだろう? 運が悪いだけなのだろうか。それとももっと根本的な原因があるのだろうか?
たぶん運が悪いだけだ,と僕は結論を下した。そして新聞を読んでしまうと,フォークナーの『響きと怒り』の文庫本をバッグから出して読んだ。フォークナーとフィリップ・K・ディックの小説は神経がある種のくたびれかたをしているときに読むと,とても上手く理解できる。僕はそういう時期がくるとかならずどちらかの小説を読むことにしている。それ以外の時期にまず読まない。(以下略)
フォークナーの小説ファンの私にとって,とても面白い文章です。
フィリップ・K・ディックはSF小説作家で,読んだことはないのですが,彼が書いた原作の映画化「ブレードランナー」や「トータル・リコール」は見ました。
この主人公は精神安定剤でもあるかのようにフォークナーの「響きと怒り」の文庫本を持ち歩いています(笑)。
私は30年以上前に買ったものを持っています。この文庫本は最近見かけません。

今だと,この文庫だと手に入りやすいか。高いけど。

響きと怒り (講談社文芸文庫) - ウィリアム・フォークナー, 高橋 正雄
なぜ主人公の「僕」は神経がくたびれたときに,フォークナーを読むのか?
フォークナーの小説は難解なものが多く,とくに「響きと怒り」は4章あるのですが,日付は行ったきり来たり,視点もばらばら。
各章の最初にはそれがいつの出来事か,カレンダーがついています。
第1章は1928年4月7日。語り手は知的障害を持つベンジー。
第2章は1910年6月2日。語り手はベンジーの兄クウェンティン。
第3章は1928年4月6日。語り手はクウェンティンの弟ジェイソン。
第4章は1928年4月8日。客観的多元描写。
この小説は,上記の他に妹のキャディを含むコンプソン家の崩壊への物語。
難解極まりないのですが,これがフォークナーの小説の魅力でもあります。
ちなみに,この「響きと怒り」の原題は The Sound and the Fury。

The Sound and the Fury - Faulkner, William
タイトルはシェイクスピアの「マクベス」第5幕第5場からとられたとされます。
Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
人生は歩く影に過ぎない,下手な役者
出番の時は舞台の上で派手な身振り大きなため息もつくのに
終わるとふっといなくなる。
人生は白痴の語る物語,響きと怒りに満ちているが
そこには何の意味もない。
「人生は歩く影」が有名なところですね。
「マクベス」の「白痴の語る物語」の部分が第1章の知的障害を持つベンジーの語りと一致します。
でも,こんな小説を持ち歩いている人なんかいるかなあ。
でも,小説とは何でもありの世界。
そういう小説を持ち歩いている人が主人公の世界の物語。
主人公が語るように,神経がくたびれたとき,「響きと怒り」いかがですか?
おそらく,もっとくたびれてしまいます(笑)。
*記事のタイトルですが,前回までは村上春樹氏と敬称をつけましたが,フォークナーと対等に村上春樹としました。
というか,作家名がたまたま本名と同じということです。
この記事へのコメント
どちらの作家のものも読んだことがありません。フォークナーは食わず嫌いだったのかもしれません。なんか”めんどくさい人”(笑)のようなイメージでいました。大学時代の同宿の友人は日本文学専攻でしたが、彼の本棚にはフォークナーの本が有りましたね。
フィリップ・K・ディックは、私が盛んにSFを読み漁っていた頃の人ですが、出会いが無かったのか、忘れてしまっているのか、読んだ記憶がありません。
もしかすると、アンドロイドと人間の区別の様な話って彼の作品だったかしら? 今、Wikiを参照してみたら薄っすら記憶の片隅に残っていたのですが…
おはようございます。
フォークナーはとっつきにくいし,文章も回りくどいし,ヘミングウェイのように一文は短くはない。おそらく一番に読みやすく内容も優れているのが短編「エミリーにバラを」でしょう。
土日も職場に足を運ばないと年度末を越せません。