村上春樹とフォークナー(3) 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」

過去2回,作家としての村上春樹とフォークナーの関係を推察してきましたが,彼がフォークナー好きなのは間違いないのではと思います。
フォークナーの影響を強く受けた作家と言えば,ノーベル賞作家ならガルシア・マルケス大江健三郎,そして中上健次がまず思い浮かびます。

でも,実は村上春樹もかなり影響を受けているのではと思うことがあります。
特に彼の4作目の長編小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年)を読んだとき,そう思いました。

これは私が持っている本と英訳版。

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おもしろいのはそれぞれのタイトル。
原作は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」。
英訳版は Hard-boiled Wonderland and the End of the World


この小説は2つの異なる物語が進んでいくのですが,奇数章が「ハードボイルド・ワンダーランド」。偶数章が「世界の終り」。

英訳版は出てくる順番通りのタイトルにしたと考えられます。

余談ですが,小説のタイトルとしては長いので日本の出版社は「世界の終り」にしてくれないかと言い,英語版では「ハードボイルド・ワンダーランド」にしてくれないかと言ったそうです(笑)。

もちろん,この小説の楽しみ方,読解の仕方はいろいろあると思いますが,私はこれを読んだとき,奇数章の主人公「私」と偶数章の「僕」は同一人物ではないかと思いました。

奇数章の「私」は現実世界で計算士という仕事をしていてハードボイルド的な事件に巻き込まれていきます。
一方,偶数章の「僕」は一角獣が生息し壁に囲まれた街(世界の終り)の図書館で夢読みという仕事をしています。

単純に書いてしまえば,「僕」は,現実世界の「私」の「意識の核」,または「意識下の無意識」であり,エンディングに向かって進んでいきます。(ネタバレなしです)

20世紀文学の1つの流れに「意識を描く」ことがあったと思います。
いわゆる「意識の流れ」を描く手法はジョイスの「ユリシーズ」から始まったとされ,フォークナーもその代表作家。

前々回に取り上げた「響きと怒り」でも急に文章が登場人物の意識(頭の中の動き)をそのまま綴った文章に変わる場面がけっこうあります。
(彼の他の作品群でも「意識の流れ」の手法は多く取り入れられています。)

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作家・村上春樹はこの20世紀文学の「意識」を描くことに,2つの物語という新たな手法で挑んだのだとその時思いました。
彼がノーベル文学賞を獲得するとすれば,この作品の功績が大きいと思います。

また,2つの異なる物語を交互に描く手法は,すでにフォークナーが「野生の棕櫚」(1939年)で行っています。

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詳しくは過去記事で → フォークナー「野生の棕櫚」 hemingwaves?? 

さらに,これはフォークナーが大河ドラマ的な長編「アブサロム,アブサロム!」につけた地図

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これは村上春樹が「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」につけた地図。

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これは英語版の地図。(表紙見開き)

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別に真似をしているわけではありませんが,地図を載せようと考えたとき,村上氏の頭にフォークナーのことがチラッと横切ったかも。

なんだかフォークナー礼賛のような文章になりました。

最後に私のフォークナーの蔵書。

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最後に村上氏は本当にいろいろな過去の作家を勉強しているワールドワイドな作家だと思います。

これは長野に来たときのフォークナー。

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もし,フォークナーが村上春樹をはじめとする現代作家の作品を読んだらなんというかな?
フランスで認められ,南米や日本・中国のアジアにも大きな影響を与えた作家。
自分の蒔いた種が花開いていると思うかな。

私のフォークナー愛は過去記事で。

→ Faulkner, Faulkner!



この記事へのコメント

2024年03月24日 06:42
おはようございます。

 『20世紀文学の1つの流れに「意識を描く」ことがあったと思います』と言う先生のご意見、なるほど、と思いました。「意識の流れ」を描く手法は、近代文学の多くの作家が試みた流れでしたね。
2024年03月24日 06:50
あきあかねさん
おはようございます。
「意識の流れ」はある意味20世紀文学の1つの流れ,1つの流行でもあったと思います。リアリズム文学からどう抜け出すか,今でもいろいろな作家が試行錯誤しています。日本では川端康成や横光利一にその試みが見られるようですが,主語を持たなくても成立する日本語文学こそ「内的独白」は有効な手法のような気がします。
村上氏の作品は「意識の核」を別の章で描くという20世紀文学の最高峰だと思うのは私だけでしょうか。彼がノーベル文学賞を受けるとしたらこの点と,画期的な直喩・暗喩,ポップカルチャーと文学の融合がその理由だと考えます。