「源氏物語」の戻し訳(2) ウェイリーは「あはれ」をどう訳したか
約1000年前の「源氏物語」を約100年前に英訳したのがアーサー・ウェイリー。
彼の功績によって「源氏物語」The Tale of Genji は世界文学の仲間入りを果たしました。
そして,2017年末,俳人で評論家の毬矢まりえ氏と妹の森山恵氏によって,新たな The Tale of Genji の日本語訳,つまり新しい「戻し訳」が出ました。この「戻し訳」という言い方は私の造語ではなく,毬矢まりえ氏が4回にわたって放送したNHKラジオ(R2)の「カルチャーラジオ」の中で使った言葉です。
前回も書きましたが,「枕草子」が「をかし」の文学と言われるのに対し,「源氏物語」は「あはれ」の文学と言われます。
先ほどの放送によると,「源氏物語」にはのべ40万語あまりの語彙が使われています。(「枕草子」は約7000語だそうです。)
そのうち,「あはれ」は944回も登場し,「あはれがる」など関連語を含めると1035回登場するそうです。
本居宣長は「紫文要領」で「源氏物語」は「もののあはれ」の文学であると言い,「心の動くがすなはちもののあはれを知るといふものなり」と喜んだり悲しんだり,人のあらゆる心の動きが「もののあはれ」だ,と言っているそうです。
NHKの放送の第3回では,アーサー・ウェイリーが「源氏物語」を英語全訳するさいに「あはれ」をどう訳したのかが語られました。
第6巻にあたる「末摘花」(すえつむはな)より。
原文
心ぼそくて残りゐたるを,もののついでに語りきこえければ,あはれのことや、とて御心とゞめて問ひ聞き給ふ。
ウェイリー訳
Since his death she had lived alone and was very unhappy. Genji's sympathy was aroused and he began to question Myobu about this unfortunate lady.
戻し訳ではこの部分は「ゲンジは同情心をかき立てられ」と訳されています。
この部分で「あはれ」は sympathy(同情心)とウェイリーは訳しています。
同じく「末摘花」から。
かやうの所にこそは,昔物語にもあはれなる事どももありけれ,……
ウェイリー訳
This was just the sort of place which in an old tale would be chosen as the scene for the most romantic happenings.
戻し訳
いにしえの物語ならば,ロマンティックな出来事が起こるのは,まさにこのような場所。
今度は「あはれ」は romantic です。
さらに・・・
あはれ,さも寒き年かな。命長ければ,かゝる世にも遇ふものなりけり。とてうち泣くもあり。
“O dear, O dear,” cried the lady in the apron “what a cold winter we are having!”
「あらまあ,あらまあ,なんて寒い冬でしょうね。長生きしてこんな目に合うとは」エプロンの老女は涙ぐみます。
この「あはれ」は「O dear, O dear,」という感嘆の言葉に訳されています。しかも繰り返し!
つまり,ウェイリーは「あはれ」を機械的に何かの英単語に置き換えたのではなく,それをその場にあった最も適切な語を持ってきて英訳しているのです。
つまり,「あはれ」がとても重要な語であることを認識していたのでしょう。
他にもこんなエピソードを紹介してくれました。
同じく「末摘花」には「をかし」と「あはれ」が同時に出てくる文章があるのです。
をかしうもあはれにも,やうかへて,心とまりぬべきありさまをいと埋(うも)れすくよかにて,何の栄えなきをぞ,口惜しう思す
この「をかしうもあはれにも」をウェイリーは beauty and facination と訳しました。
戻し訳では「美しさと趣きがある」と訳したそうです。
このような話を聞くと,ウェイリーが独学でどうやって日本の古典を学んだのか,興味が出てきますが,彼は他にも「あはれ」のニュアンスを解釈し,様々な言葉をあてました。
時には strange and lovely と2語をあてたり,他にも・・・
melancholy 哀愁
sorrow 残念
pathetic 哀れな
depressing 気落ちさせるような
pity 哀れみ
などの悲しげな言葉があてられることが多いそうです。私がつけた日本語は1つの意味の例にしかすぎません。
1語1語をないがしろにせず,「あはれ」の概念がいかに大切かを理解し,苦心したのでしょう。
つづく
彼の功績によって「源氏物語」The Tale of Genji は世界文学の仲間入りを果たしました。
そして,2017年末,俳人で評論家の毬矢まりえ氏と妹の森山恵氏によって,新たな The Tale of Genji の日本語訳,つまり新しい「戻し訳」が出ました。この「戻し訳」という言い方は私の造語ではなく,毬矢まりえ氏が4回にわたって放送したNHKラジオ(R2)の「カルチャーラジオ」の中で使った言葉です。
前回も書きましたが,「枕草子」が「をかし」の文学と言われるのに対し,「源氏物語」は「あはれ」の文学と言われます。
先ほどの放送によると,「源氏物語」にはのべ40万語あまりの語彙が使われています。(「枕草子」は約7000語だそうです。)
そのうち,「あはれ」は944回も登場し,「あはれがる」など関連語を含めると1035回登場するそうです。
本居宣長は「紫文要領」で「源氏物語」は「もののあはれ」の文学であると言い,「心の動くがすなはちもののあはれを知るといふものなり」と喜んだり悲しんだり,人のあらゆる心の動きが「もののあはれ」だ,と言っているそうです。
NHKの放送の第3回では,アーサー・ウェイリーが「源氏物語」を英語全訳するさいに「あはれ」をどう訳したのかが語られました。
第6巻にあたる「末摘花」(すえつむはな)より。
原文
心ぼそくて残りゐたるを,もののついでに語りきこえければ,あはれのことや、とて御心とゞめて問ひ聞き給ふ。
ウェイリー訳
Since his death she had lived alone and was very unhappy. Genji's sympathy was aroused and he began to question Myobu about this unfortunate lady.
戻し訳ではこの部分は「ゲンジは同情心をかき立てられ」と訳されています。
この部分で「あはれ」は sympathy(同情心)とウェイリーは訳しています。
同じく「末摘花」から。
かやうの所にこそは,昔物語にもあはれなる事どももありけれ,……
ウェイリー訳
This was just the sort of place which in an old tale would be chosen as the scene for the most romantic happenings.
戻し訳
いにしえの物語ならば,ロマンティックな出来事が起こるのは,まさにこのような場所。
今度は「あはれ」は romantic です。
さらに・・・
あはれ,さも寒き年かな。命長ければ,かゝる世にも遇ふものなりけり。とてうち泣くもあり。
“O dear, O dear,” cried the lady in the apron “what a cold winter we are having!”
「あらまあ,あらまあ,なんて寒い冬でしょうね。長生きしてこんな目に合うとは」エプロンの老女は涙ぐみます。
この「あはれ」は「O dear, O dear,」という感嘆の言葉に訳されています。しかも繰り返し!
つまり,ウェイリーは「あはれ」を機械的に何かの英単語に置き換えたのではなく,それをその場にあった最も適切な語を持ってきて英訳しているのです。
つまり,「あはれ」がとても重要な語であることを認識していたのでしょう。
他にもこんなエピソードを紹介してくれました。
同じく「末摘花」には「をかし」と「あはれ」が同時に出てくる文章があるのです。
をかしうもあはれにも,やうかへて,心とまりぬべきありさまをいと埋(うも)れすくよかにて,何の栄えなきをぞ,口惜しう思す
この「をかしうもあはれにも」をウェイリーは beauty and facination と訳しました。
戻し訳では「美しさと趣きがある」と訳したそうです。
このような話を聞くと,ウェイリーが独学でどうやって日本の古典を学んだのか,興味が出てきますが,彼は他にも「あはれ」のニュアンスを解釈し,様々な言葉をあてました。
時には strange and lovely と2語をあてたり,他にも・・・
melancholy 哀愁
sorrow 残念
pathetic 哀れな
depressing 気落ちさせるような
pity 哀れみ
などの悲しげな言葉があてられることが多いそうです。私がつけた日本語は1つの意味の例にしかすぎません。
1語1語をないがしろにせず,「あはれ」の概念がいかに大切かを理解し,苦心したのでしょう。
つづく
この記事へのコメント
「あはれ」は現代日本語でも訳しにくい言葉ですね。ましてや英語では苦労なさったのでしょうね。時代の新旧でも充てられる単語が違ったりするように思います。
枕草子の「をかし」は現代語にもなじみやすい言葉(女子高生が常用しそうな言葉ですw)ですので、英語にも訳しやすかったのではないかと思ったのですが、どうですか?
「をかしうもあはれにも」を、「beauty and facination」と訳したのは、「をかし」と「あはれ」をそれぞれ訳したのではなく、2語併せて翻案し「beauty and facination」と訳したように思ったのですが、どうなんでしょう?
本筋とは関係ない事ですが、The Tale of Genji の日本語訳の本の表紙絵、これってクリムトの絵ですよね。好きな画家の一人でしたので、気になってしまいました。
こんにちは。
ラジオでは「あはれ」の話はありましたが,「をかし」については特になかったのでこの beauty and facination のところしかわかりません。このあたりはウェイリーは「をかしうもあはれにも」をけっこう忠実に訳したんだと思いました。この並列に対して2語を and でつないで原文に近づこうとしたのではないでしょうか。
ラジオではないのですがあるサイトでは,源氏物語のスケールに匹敵する絵画を表紙に使いたかったそうです。そこでジャポニスムの影響を受けたとされるクリムトを選んだそうです。
主筋からは完全に外れるのですが、クリムトについてちょっと私見を述べておきたかったので再コメしました。
クリムトがジャポニズムの影響を受けていた、と言う意見をよく聞くのですが、確かに浮世絵に似た構図や色遣いをしているのですが、私はむしろ東欧の正教会やその信徒の間で使われている「イコン」の様式を受け継いでいるように思います。平坦な構図や人物の配置、そしてテーマの選び方(背徳的なテーマはキリスト教的倫理観の裏返しです)等に「イコン」の影響を見ます。
私がクリムトに惹かれたのは、そうした宗教観もあったのですが、その様式美と、縦長の構図でした。
おはようございます。私はクリムトについては詳しくはないのですが,ジャポニスムの影響というのは再和訳した毬矢さんの言葉で,そこから表紙に使ったそうです。絵巻や浮世絵のようないかにも日本と言うような表紙は避けたかったんでしょうか。一度西洋を経たものとして選んだのかな。