伝説のバンド「たま」(5) 竹中労さんと「たま」
バンド「たま」の話は書けばキリがないのですが,あと2回で終わりにします。
あまり英語学習とは関係がなくなってきました。ただ,前回最後のほうで書いたニューヨークでのライブの動画では彼らのユニークな英語のMCを聞くことができます。
私は持っていませんが,こちらが「たま ライブ・イン・ニューヨーク」。
さて,「たま」のことを当初から認めていたのは評論家でルポ・ライターの竹中労さんではないでしょうか。
ちょっと強面なんですが,「たま」のことを熱く語る竹中さん。
竹中さんは精力的にインタビューを重ね,「たま」のことを1冊の本にまとめました。
タイトルはそのまま「『たま』の本」。
白い本なんですが,カバーも真っ白で日焼けしてしまいました。本体はこちら。
私が,このシリーズの中で「たま」を「和製ビートルズ」に例えたのも,この本の後ろ盾があったからかな。
竹中さんは書いています。
「たま」の演奏にビートルズを連想した人々は,すくなくあるまい。音楽的構成と表現手段は自由奔放で,しかも丁寧である。いじくりすぎの感さえあるが,それはさておき根本的なところで,「たま」とビートルズは重なりあう。世に出たとき,彼らはすでに,彼らの音楽的世界を確立していた。
また,竹中さんは彼らの文学的背景も引き出しています。
おかっぱ頭の知久さんは萩原朔太郎。本人も「月に吠える」は好きだそうです。それに夢野久作。
パーカッションの石川さんはつげ義春。
ベースの滝本さんは筒井康隆を読んできたそうですが,石川さんの影響でつげ義春にはまってしまう。
「さよなら人類」を書いた柳原さんは高校時代に太宰治,高3で埴谷雄高の「死霊」を読んだそうです。
私は「死霊」は買ってはいるものの,1ページ目を開く勇気がありません。
さて,こちらが竹中さんが「たま」にインタビューしている様子。時間があればどうぞ。
「たま」がテレビ番組「イカ天」に出だしたのが1989年,「さよなら人類」でメジャーデビューしたのが1990年。
竹中さんは病気の体でしたが,上の動画のように精力的に取材し執筆をつづけました。
闘病中に発行されたのが「『たま』の本」。1990年の12月のことでした。
しかし,これが竹中さんの遺作となってしまいます。
翌年1991年4月にツアー中の沖縄のホテルで会ったのが「たま」と竹中さんの最後。
やせ細った竹中さんを見て,「ツアーがつらいなんて言えない」と思ったそうです。
(石川浩司原作「『たま』という船に乗っていた」より)
それから1カ月後の1991年5月に竹中労さん逝去。享年63歳でした。
独特の彼らの音楽の世界を理解してくれた人がいたことは精神的に支えられたことでしょう。
理解者がいるって大きいですね。
あまり英語学習とは関係がなくなってきました。ただ,前回最後のほうで書いたニューヨークでのライブの動画では彼らのユニークな英語のMCを聞くことができます。
私は持っていませんが,こちらが「たま ライブ・イン・ニューヨーク」。
さて,「たま」のことを当初から認めていたのは評論家でルポ・ライターの竹中労さんではないでしょうか。
ちょっと強面なんですが,「たま」のことを熱く語る竹中さん。
竹中さんは精力的にインタビューを重ね,「たま」のことを1冊の本にまとめました。
タイトルはそのまま「『たま』の本」。
白い本なんですが,カバーも真っ白で日焼けしてしまいました。本体はこちら。
私が,このシリーズの中で「たま」を「和製ビートルズ」に例えたのも,この本の後ろ盾があったからかな。
竹中さんは書いています。
「たま」の演奏にビートルズを連想した人々は,すくなくあるまい。音楽的構成と表現手段は自由奔放で,しかも丁寧である。いじくりすぎの感さえあるが,それはさておき根本的なところで,「たま」とビートルズは重なりあう。世に出たとき,彼らはすでに,彼らの音楽的世界を確立していた。
また,竹中さんは彼らの文学的背景も引き出しています。
おかっぱ頭の知久さんは萩原朔太郎。本人も「月に吠える」は好きだそうです。それに夢野久作。
パーカッションの石川さんはつげ義春。
ベースの滝本さんは筒井康隆を読んできたそうですが,石川さんの影響でつげ義春にはまってしまう。
「さよなら人類」を書いた柳原さんは高校時代に太宰治,高3で埴谷雄高の「死霊」を読んだそうです。
私は「死霊」は買ってはいるものの,1ページ目を開く勇気がありません。
さて,こちらが竹中さんが「たま」にインタビューしている様子。時間があればどうぞ。
「たま」がテレビ番組「イカ天」に出だしたのが1989年,「さよなら人類」でメジャーデビューしたのが1990年。
竹中さんは病気の体でしたが,上の動画のように精力的に取材し執筆をつづけました。
闘病中に発行されたのが「『たま』の本」。1990年の12月のことでした。
しかし,これが竹中さんの遺作となってしまいます。
翌年1991年4月にツアー中の沖縄のホテルで会ったのが「たま」と竹中さんの最後。
やせ細った竹中さんを見て,「ツアーがつらいなんて言えない」と思ったそうです。
(石川浩司原作「『たま』という船に乗っていた」より)
それから1カ月後の1991年5月に竹中労さん逝去。享年63歳でした。
独特の彼らの音楽の世界を理解してくれた人がいたことは精神的に支えられたことでしょう。
理解者がいるって大きいですね。
この記事へのコメント
竹中労はたまの楽曲の歌詞に注目して”ビートルズ的”と言っているようですね。言い換えれば、歌詞の内容が日本の文化や情緒を代表しているようなナショナリズムだ、と言っているように思います。
竹中労は、一般にゴリゴリの左翼と見られているようですが、彼の書いたものなどから私が受けた印象は、、強い民族主義です。ややもすれば国粋主義にも傾いて行きそうな感じを受けます。
ところで、竹中労って、大分前に亡くなっていませんでしたっけ?
(ちなみに、’70年代、彼が書いた演劇評を何度も見ました)
これ、もしかするとネタバレになると思って控えていたのですけど…
今、ひとつのムーブになっていて、たまに似た雰囲気のグループがあるのですけど、、、「打首獄門同好会」ってロックグループをご存知ですか?
もし、このグループに触れる予定でなければ、次の回のコメントででもお話ししようと思います。
おはようございます。竹内さんは1990年の12月に「たまの本」を出して数カ月,翌年の5月に亡くなりました。ちょっと近寄るのが怖いイメージがありましたが,こんな本出したんだと驚いたものです。
打首獄門同好会,聞いたことがありません。ちょっと怖い名前ですね。