安政元年のはっけよい(1) 浦賀沖にペリーの黒船!
前回,朝顔が「秋の季語」であることを書きました。意外ですが同じ秋の季語に「すもう」(相撲・角力)があります。
年に6場所もあるのに,なぜ秋の季語かと言うと,本来「相撲」は神事と関係の深いもので,宮中では勝負によって農作の豊凶を占う初秋の行事でした。
今回から数回にわたって相撲のことを書いていきます。
今では日米交流のスポーツと言えば野球でしょう。アメリカでは大谷翔平選手が獅子奮迅の活躍を見せています。

大谷選手がアメリカで活躍するように,今でこそ外国出身の力士は珍しくありませんが,江戸の末期に日米の交流に一役買った力士の話です。
このことを書くきっかけはNHKラジオ第2の30分番組「カルチャーラジオ」の火曜日「歴史再発見」,東洋大学教授・谷釜尋徳さんの「日本スポーツ文化史」全13回の第11回「黒船来航と江戸相撲」(9月10日放送)です。

さあ,黒船来航と江戸相撲はどんな関係があったのでしょう!?
時は嘉永6年(1853年),マシュー・ペリー海軍代将(日本語呼称で提督)率いるアメリカの蒸気船2隻を含む艦船4隻が江戸湾入り口の浦賀沖に現れます。いわゆる黒船来航,一大事件です。

ご存じペリー提督。

船舶の一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入。結果,幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め,そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡されます。
これは同行した画家が描いたペリー初上陸の絵。

こちらが同行画家のヴィルヘルム・ハイネ。

この黒船来航で幕府のみならず,日本中が大騒ぎ。一般的にはこの黒船来航からを「幕末」と呼ぶようです。
当時の将軍,徳川家慶は病床に伏せており,「条約提携の親書に返事ができない,1年の猶予がほしい」と要求したために,ペリーは「1年後に再来航する」と告げて和暦の6月,江戸を離れていきます。
さあ,どうする!?
この国難に,現在の日本相撲協会の前身,江戸相撲会所が立ち上がります!
「我々も幕府から免許を受け興行をしている身,何かしら貢献したい」と願書を奉行所に提出。
「力仕事の他には心得がないので荷物運搬のような仕事をしたい」
町奉行所はこれを重要案件とし,相撲会所のいわゆる年寄と協議し次の来航に備えました。
1853年,江戸相撲の力士は705人。
「地方巡業の力士もすぐに呼び戻しましょう」
翌,1854年(嘉永7年)和暦の1月16日,ペリー提督はサスケハナ号 Susquehanna で再び浦賀に来航!
幕府に1年間の猶予を与えるはずでしたが,あえて半年で決断を迫り幕府は大慌て!

ペリーは香港で将軍家慶の死を知り,国政の混乱の隙を突こうと考えたのではないかとも言われています。
江戸相撲会所は町奉行に再び願書を提出。
「お国のため相撲取りたちに荷物の運搬などの御用を申し付けてほしい」
そこで幕府は人選を命じました。さあ,どうなる!?
ラジオでは1854年のことを「安政元年」と言っています。
和暦で「嘉永7年」は11月に「安政元年」に変わりましたが,詔勅では「改嘉永七年為安政元年」とあり,元日に遡りこの年を「安政元年」とする見方があります。
多くの年表や教科書では「安政元年」としているため,放送でもそれに従ったのでしょう。
「安政元年のはっけよい」,どこか大江健三郎の「万延元年のフットボール」を意識しました(笑)。

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) - 大江健三郎
つづく
年に6場所もあるのに,なぜ秋の季語かと言うと,本来「相撲」は神事と関係の深いもので,宮中では勝負によって農作の豊凶を占う初秋の行事でした。
今回から数回にわたって相撲のことを書いていきます。
今では日米交流のスポーツと言えば野球でしょう。アメリカでは大谷翔平選手が獅子奮迅の活躍を見せています。

大谷選手がアメリカで活躍するように,今でこそ外国出身の力士は珍しくありませんが,江戸の末期に日米の交流に一役買った力士の話です。
このことを書くきっかけはNHKラジオ第2の30分番組「カルチャーラジオ」の火曜日「歴史再発見」,東洋大学教授・谷釜尋徳さんの「日本スポーツ文化史」全13回の第11回「黒船来航と江戸相撲」(9月10日放送)です。

さあ,黒船来航と江戸相撲はどんな関係があったのでしょう!?
時は嘉永6年(1853年),マシュー・ペリー海軍代将(日本語呼称で提督)率いるアメリカの蒸気船2隻を含む艦船4隻が江戸湾入り口の浦賀沖に現れます。いわゆる黒船来航,一大事件です。

ご存じペリー提督。

船舶の一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入。結果,幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め,そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡されます。
これは同行した画家が描いたペリー初上陸の絵。

こちらが同行画家のヴィルヘルム・ハイネ。

この黒船来航で幕府のみならず,日本中が大騒ぎ。一般的にはこの黒船来航からを「幕末」と呼ぶようです。
当時の将軍,徳川家慶は病床に伏せており,「条約提携の親書に返事ができない,1年の猶予がほしい」と要求したために,ペリーは「1年後に再来航する」と告げて和暦の6月,江戸を離れていきます。
さあ,どうする!?
この国難に,現在の日本相撲協会の前身,江戸相撲会所が立ち上がります!
「我々も幕府から免許を受け興行をしている身,何かしら貢献したい」と願書を奉行所に提出。
「力仕事の他には心得がないので荷物運搬のような仕事をしたい」
町奉行所はこれを重要案件とし,相撲会所のいわゆる年寄と協議し次の来航に備えました。
1853年,江戸相撲の力士は705人。
「地方巡業の力士もすぐに呼び戻しましょう」
翌,1854年(嘉永7年)和暦の1月16日,ペリー提督はサスケハナ号 Susquehanna で再び浦賀に来航!
幕府に1年間の猶予を与えるはずでしたが,あえて半年で決断を迫り幕府は大慌て!

ペリーは香港で将軍家慶の死を知り,国政の混乱の隙を突こうと考えたのではないかとも言われています。
江戸相撲会所は町奉行に再び願書を提出。
「お国のため相撲取りたちに荷物の運搬などの御用を申し付けてほしい」
そこで幕府は人選を命じました。さあ,どうなる!?
ラジオでは1854年のことを「安政元年」と言っています。
和暦で「嘉永7年」は11月に「安政元年」に変わりましたが,詔勅では「改嘉永七年為安政元年」とあり,元日に遡りこの年を「安政元年」とする見方があります。
多くの年表や教科書では「安政元年」としているため,放送でもそれに従ったのでしょう。
「安政元年のはっけよい」,どこか大江健三郎の「万延元年のフットボール」を意識しました(笑)。

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫) - 大江健三郎
つづく
この記事へのコメント
ええ、私もサムネでタイトルを見た時に「万延元年のフットボール」を思い浮かべました。で、万延と安政、どっちが先だっけなと、壁に貼ってある年表を確認しました。
おはようございます。書籍では「嘉永7年」と書いてあるのに放送では「安政元年」と言っているのはなぜだろうと思いましたが,詔勅により言い換えが行われる場合があるんですね。
大江健三郎の「万延元年のフットボール」のように壮大な物語にはなりませんし,村上春樹の「1973年のピンボール」ほどおもしろくはないと思いますが,日米のスポーツ交流の始まりをシリーズで書いていきます。