安政元年のはっけよい(2) ペリー再来航と力士たち
NHKラジオ第2「カルチャーラジオ」の「日本スポーツ文化史」第11回「黒船来航と江戸相撲」で聞いた話を自分なりに膨らませています。
和暦の安政元年1月に再来航し条約の締結を迫るペリー提督。

現在の日本相撲協会の前身,江戸相撲会所の「年寄」は奉行所に再び願書。
「お国のため相撲取りたちに荷物の運搬などの御用を申し付けてほしい!」
幕府は人選を命じ,アメリカ船に贈答する米俵を運搬する役目を与えました。
その力士を選ぶ基準は・・・
・米俵を肩に担いだ状態で,片手で1~2俵の米俵を持つことができる!
・2俵の米俵を肩に担いだまま,手を伸ばしてさらに1俵を高く持ち上げることができる!
彼らに期待されたのは,自由自在に米俵を持ち上げるパフォーマンス。土俵入りと稽古相撲も披露するつもりです。
ただの荷物運びではなく国家の威信にかかわる一大事業が託されたのです!
幕内の看板力士を中心に85人の候補者が選ばれ,相撲会所は米俵を担がせる予行練習を行いました。
人数の絞り込みと役割分担を決定し,和暦2月9日に町奉行所に改めて申し出ました。
力士は2つのグループに分けられました。
贈呈品の米俵を持ち運ぶ役割と交代要員(幕内で活躍する大柄な力士だけど太りすぎやケガ人)。
選ばれた力士には当時の最高位,東西大関の小柳常吉と鏡岩浜之助をはじめとする幕内の看板力士がいます。

また,絶賛売り出し中の巨漢力士,白真弓肥太右エ門(しらまゆみひだえもん)もいます。身長208センチ,体重150キロあったそうです。

直接は関係ありませんが,岐阜県飛騨市の酒造会社が,白真弓肥太右エ門にちなんだ清酒を販売しているようです。

これは当時の番付表。

大関の小柳常吉と鏡岩浜之助,そして白真弓肥太右エ門の名前を見つけることができます。

相撲会所の年寄は任務に向けて5つの依頼事項を町奉行所に届けています。
1 力士は現場へ赴くときは羽織・袴を着用するが,米俵を運搬するときは裸のほうが運びやすい。
2 江戸から現地への移動は目立たないように船を用いる。
3 船の中の食事は自分たちでまかなうが,現地での食事は幕府の負担にしてほしい。
4 名前を挙げた力士以外にも10名ほど同行するが,その分の経費も幕府の負担にしてほしい。
5 これだけの大人数の宿泊先を自分たちで探すのは難しいので,幕府のほうで手配してほしい。
国家の威信を担った計画は具体的になりました。
力士たちは2月16日,両国の相撲年寄の邸宅に集合。
翌2月17日の朝,江戸橋の河岸から船で浦賀へ向かいました。
さあ,どうなる!?
つづく
和暦の安政元年1月に再来航し条約の締結を迫るペリー提督。

現在の日本相撲協会の前身,江戸相撲会所の「年寄」は奉行所に再び願書。
「お国のため相撲取りたちに荷物の運搬などの御用を申し付けてほしい!」
幕府は人選を命じ,アメリカ船に贈答する米俵を運搬する役目を与えました。
その力士を選ぶ基準は・・・
・米俵を肩に担いだ状態で,片手で1~2俵の米俵を持つことができる!
・2俵の米俵を肩に担いだまま,手を伸ばしてさらに1俵を高く持ち上げることができる!
彼らに期待されたのは,自由自在に米俵を持ち上げるパフォーマンス。土俵入りと稽古相撲も披露するつもりです。
ただの荷物運びではなく国家の威信にかかわる一大事業が託されたのです!
幕内の看板力士を中心に85人の候補者が選ばれ,相撲会所は米俵を担がせる予行練習を行いました。
人数の絞り込みと役割分担を決定し,和暦2月9日に町奉行所に改めて申し出ました。
力士は2つのグループに分けられました。
贈呈品の米俵を持ち運ぶ役割と交代要員(幕内で活躍する大柄な力士だけど太りすぎやケガ人)。
選ばれた力士には当時の最高位,東西大関の小柳常吉と鏡岩浜之助をはじめとする幕内の看板力士がいます。

また,絶賛売り出し中の巨漢力士,白真弓肥太右エ門(しらまゆみひだえもん)もいます。身長208センチ,体重150キロあったそうです。

直接は関係ありませんが,岐阜県飛騨市の酒造会社が,白真弓肥太右エ門にちなんだ清酒を販売しているようです。

これは当時の番付表。

大関の小柳常吉と鏡岩浜之助,そして白真弓肥太右エ門の名前を見つけることができます。

相撲会所の年寄は任務に向けて5つの依頼事項を町奉行所に届けています。
1 力士は現場へ赴くときは羽織・袴を着用するが,米俵を運搬するときは裸のほうが運びやすい。
2 江戸から現地への移動は目立たないように船を用いる。
3 船の中の食事は自分たちでまかなうが,現地での食事は幕府の負担にしてほしい。
4 名前を挙げた力士以外にも10名ほど同行するが,その分の経費も幕府の負担にしてほしい。
5 これだけの大人数の宿泊先を自分たちで探すのは難しいので,幕府のほうで手配してほしい。
国家の威信を担った計画は具体的になりました。
力士たちは2月16日,両国の相撲年寄の邸宅に集合。
翌2月17日の朝,江戸橋の河岸から船で浦賀へ向かいました。
さあ,どうなる!?
つづく
この記事へのコメント
この当時、浦賀は幕府直轄地で、浦賀奉行が置かれていましたので、実際の手配は浦賀奉行所が行ったのでしょうね。でも、この当時、多少の商船の出入りがあるとはいえ、商取引はさほどなかったはずですので、旅宿等はせいぜい2~3軒だったのではないでしょうか。こんな体の大きい人達、大食いの人達を泊める宿を探すのは大変だったでしょうね。
次の回で書きましたが,幕府が用意した宿は保土ヶ谷宿でした。今では横浜市に保土ヶ谷区がありますが,横浜村と保土ヶ谷宿の距離感がいまいちわかりません。数十人の力士が食べるご飯の量はすごかったでしょうね。宿は潤ったでしょうが,幕府の財布を預かった役人は冷や汗ものだったでしょうか。でもこれは国家の一大プロジェクトだったのでしょう。