安政元年のはっけよい(3) 力士たち横浜で米俵を運ぶ
安政元年(嘉永7年)に再び江戸湾に現れたペリー提督に江戸幕府は慌てます。
1年後と言っていたはずなのに,わずか半年で再来航してきたのです。

これは同行した画家,ヴィルヘルム・ハイネが描いた横浜村上陸の様子。

幕府と江戸相撲会所はこの再来航に備えて準備を進めてきました。
それは屈強な力士に贈呈用の米を運搬させ,力を見せつけようというもの。
和暦2月17日の朝,江戸橋の河岸から海路で浦賀へ向かった数十名の力士たちは,その日から東海道の保土谷宿に泊まり本番に備えて待機してました。

これと並行して力士が運ぶ米俵の準備も進められました。当初は横浜村で調達する予定でしたが,何らかの事情があって幕府御用達の町人によって江戸から神奈川宿まで輸送されることに変更されています。
2月24日,命令状が届き,2日後に任務遂行することが決まります。
翌日,相撲年寄2名が幕府の役人とともに,横浜の米の運搬する場所の下見をし,運搬後に稽古相撲をすることを確認しました。
1か月前には幕府はこの地に土俵を作ることを命じていたそうです。
幕府も期待満々,念入りに準備を進めていたんですね。
2月26日,任務遂行の日。
横浜村に近い東海道沿いの生麦に住んでいた人物の日記によると,この日は晴天。
ペリー一行が横浜の応接所に到着すると,裸にまわしをつけた力士が登場し米俵の運搬が始まります。
彼らの怪力ぶりはアメリカ人の度肝抜きました。
記録によると,一度に2俵を担ぐ力士,1俵を指先で持ち運ぶ力士,米俵を口にくわえて運ぶ力士もいたそうです。
多様なパフォーマンスをしながら運んだのでしょう。両大関の小柳・鏡岩の名前があります。

特に大関の小柳はアメリカ側の注目を集めたそうです。

また,巨漢の白真弓肥太右エ門は米俵を軽々と持ち上げて頭の上に載せるなど怪力ぶりを発揮しました。

後年残った絵画では背中に7俵,首に1俵,両腕に各2俵,合計12俵を括り付けている様子が描かれているそうです。
この米俵運搬の様子はペリーの公式記録「日本遠征記」にも描かれています。
今回,文庫本を引っ張り出し,その場所を探してみました。

「ペリー提督日本遠征記 下巻」によると・・・
「全員の視線が突如として,巨象のように海岸を踏みつけながら歩いてくる巨漢の一団に釘付けになった。彼らは職業力士(レスラー)たちで,諸侯の随員の一部を成しており(略)」
「力士の数は25人ほどで,背丈も肉の重さも人並はずれていた。腰まわりの染め衣だけの乏しい衣装は,房と抱え主の諸侯の紋章で飾られ,ぶくぶくと筋肉がふくれあがって肥満した巨大な体躯をむき出しにしていた」
「これら巨大な怪物のなかの二,三人は,日本で最も有名な力士で,トム・クリッブやトム・ハイヤーズ(=いずれもヘビー級ボクサー)にも比すべきチャンピオンの座を占めていた。国いちばんとの評判だった暴れ者コヤナギもそのひとりで,ほかの力士に勝る巨体と腕力を誇示しながらのし歩いていた」
大関・小柳常吉はペリー提督の前に連れてこられ,日本の高官はペリーに筋肉がどれだけ堅いか,体躯がどれだけ弾力があるか手で触ってみなさいとしきりに勧めました。
そこでペリーは,「巨大な腕をつかんでみて,それが大きいばかりではなく堅いことに気づいた」そうです。
ペリー一行には通訳としてサミュエル・ウィリアムズが同行していました。

今回,ウィリアムズが書いた「ペリー日本遠征随行記」を購入したところ・・・

ペリーの「遠征記」には25人と書いてありますが,「随行記」では90人の裸の力士 rikozhi が現れた,と書いてあります。
「随行記」では,小柳常吉は「ペリーにその太鼓腹を拳固で殴らせた」とあります。
また,この絵はヘンリー・アダムス副使(艦長)が小柳常吉の腹を触っている様子。
「アータムス小柳ノ腹ヲ ヲシ試シムル図」

さて,米俵運搬に話を戻すと,「随行記」によると,幕府からアメリカ政府への贈答品の他に,将軍から艦隊へ贈られたのは米俵が200俵(1俵は5斗入り),鶏が300羽。
また,ペリーの「遠征記」では「俵1俵は125ポンド(約56キロ)を下らぬ重さ」とあります。
「一度に2俵運ぶことのできない力士は2人しかいなかった」と書いています。
このとき,米俵の運搬にはアメリカ艦隊の乗組員も参加していました。
力士が波打ち際まで100メートルほどの距離を運んだ米俵を,乗組員は船に積み込みました。

ところが,彼らにとって米俵の重量は相当なもので積み込みに難儀したようです。
1俵につき2・3人がかりで運び,あまりの重さに足を踏み外し海に転落する者もいました。
さて,力士の腕の見せ所はここでは終わりません。
つづく
1年後と言っていたはずなのに,わずか半年で再来航してきたのです。

これは同行した画家,ヴィルヘルム・ハイネが描いた横浜村上陸の様子。

幕府と江戸相撲会所はこの再来航に備えて準備を進めてきました。
それは屈強な力士に贈呈用の米を運搬させ,力を見せつけようというもの。
和暦2月17日の朝,江戸橋の河岸から海路で浦賀へ向かった数十名の力士たちは,その日から東海道の保土谷宿に泊まり本番に備えて待機してました。

これと並行して力士が運ぶ米俵の準備も進められました。当初は横浜村で調達する予定でしたが,何らかの事情があって幕府御用達の町人によって江戸から神奈川宿まで輸送されることに変更されています。
2月24日,命令状が届き,2日後に任務遂行することが決まります。
翌日,相撲年寄2名が幕府の役人とともに,横浜の米の運搬する場所の下見をし,運搬後に稽古相撲をすることを確認しました。
1か月前には幕府はこの地に土俵を作ることを命じていたそうです。
幕府も期待満々,念入りに準備を進めていたんですね。
2月26日,任務遂行の日。
横浜村に近い東海道沿いの生麦に住んでいた人物の日記によると,この日は晴天。
ペリー一行が横浜の応接所に到着すると,裸にまわしをつけた力士が登場し米俵の運搬が始まります。
彼らの怪力ぶりはアメリカ人の度肝抜きました。
記録によると,一度に2俵を担ぐ力士,1俵を指先で持ち運ぶ力士,米俵を口にくわえて運ぶ力士もいたそうです。
多様なパフォーマンスをしながら運んだのでしょう。両大関の小柳・鏡岩の名前があります。

特に大関の小柳はアメリカ側の注目を集めたそうです。

また,巨漢の白真弓肥太右エ門は米俵を軽々と持ち上げて頭の上に載せるなど怪力ぶりを発揮しました。

後年残った絵画では背中に7俵,首に1俵,両腕に各2俵,合計12俵を括り付けている様子が描かれているそうです。
この米俵運搬の様子はペリーの公式記録「日本遠征記」にも描かれています。
今回,文庫本を引っ張り出し,その場所を探してみました。

「ペリー提督日本遠征記 下巻」によると・・・
「全員の視線が突如として,巨象のように海岸を踏みつけながら歩いてくる巨漢の一団に釘付けになった。彼らは職業力士(レスラー)たちで,諸侯の随員の一部を成しており(略)」
「力士の数は25人ほどで,背丈も肉の重さも人並はずれていた。腰まわりの染め衣だけの乏しい衣装は,房と抱え主の諸侯の紋章で飾られ,ぶくぶくと筋肉がふくれあがって肥満した巨大な体躯をむき出しにしていた」
「これら巨大な怪物のなかの二,三人は,日本で最も有名な力士で,トム・クリッブやトム・ハイヤーズ(=いずれもヘビー級ボクサー)にも比すべきチャンピオンの座を占めていた。国いちばんとの評判だった暴れ者コヤナギもそのひとりで,ほかの力士に勝る巨体と腕力を誇示しながらのし歩いていた」
大関・小柳常吉はペリー提督の前に連れてこられ,日本の高官はペリーに筋肉がどれだけ堅いか,体躯がどれだけ弾力があるか手で触ってみなさいとしきりに勧めました。
そこでペリーは,「巨大な腕をつかんでみて,それが大きいばかりではなく堅いことに気づいた」そうです。
ペリー一行には通訳としてサミュエル・ウィリアムズが同行していました。

今回,ウィリアムズが書いた「ペリー日本遠征随行記」を購入したところ・・・

ペリーの「遠征記」には25人と書いてありますが,「随行記」では90人の裸の力士 rikozhi が現れた,と書いてあります。
「随行記」では,小柳常吉は「ペリーにその太鼓腹を拳固で殴らせた」とあります。
また,この絵はヘンリー・アダムス副使(艦長)が小柳常吉の腹を触っている様子。
「アータムス小柳ノ腹ヲ ヲシ試シムル図」

さて,米俵運搬に話を戻すと,「随行記」によると,幕府からアメリカ政府への贈答品の他に,将軍から艦隊へ贈られたのは米俵が200俵(1俵は5斗入り),鶏が300羽。
また,ペリーの「遠征記」では「俵1俵は125ポンド(約56キロ)を下らぬ重さ」とあります。
「一度に2俵運ぶことのできない力士は2人しかいなかった」と書いています。
このとき,米俵の運搬にはアメリカ艦隊の乗組員も参加していました。
力士が波打ち際まで100メートルほどの距離を運んだ米俵を,乗組員は船に積み込みました。

ところが,彼らにとって米俵の重量は相当なもので積み込みに難儀したようです。
1俵につき2・3人がかりで運び,あまりの重さに足を踏み外し海に転落する者もいました。
さて,力士の腕の見せ所はここでは終わりません。
つづく
この記事へのコメント
なるほど、なるほど…
詳細に書かれていて、とても面白いです。
まず、米俵の入り数ですが、通常は1俵が3斗2升から4斗、産地によってまちまちでして、3斗5升を換算・取引の標準としていました。なので1俵5斗入りは大盤振る舞いです。
200俵のお米を横浜村で調達せずに江戸から運んだのはそれだけの量の均質な「精白米」を横浜村で調達するのが難しい、と危ぶんだからだと思います。当時、お米の貯蔵は籾米か、玄米、通常は玄米でした。食べる直前、小売り市場に乗る時に精米するのが普通だったのです。
でも、これだけ気を使って用意しても、その気遣いが通じる相手だったのかなあ?
200俵の精白米がどれだけの価値か、という事ですが、、、
幕府の給与支給の目安に「扶持米の基準」があります。
1人扶持=1人/1日の食い扶持・生活費=玄米5合/男子1人・1日
→5俵2升/1人・1年≒玄米5俵/1人・1年
と、なりますので、精白による目減り分を2割と見なしますと、精白米200俵は
200÷(玄米5俵×0.8)=50人/年
となります。つまり、50人が1年暮らせる物量だという事です。
もしこの200俵が玄米の場合ですが、
200÷5=40
となりますので、40人が1年暮らせる量という事になります。
いずれにしましても、大盤振る舞いですね。
おはようございます。米500俵がどれだけの価値のものか,フォローしていただきありがとうございます。まあ,アメリカ人がどれだけコメを食べるかはわかりませんが,相当な贈り物ですね。
もちろん,これがメインではなく,最後の絵にも一部が書いてありますが金漆の硯箱をはじめとするおびただしい数の贈答品が記録されています。またアメリカ側からも銃や書籍,香水,ウィスキー,ワイン,望遠鏡,電信機,救命艇,時計,海図などなどこちらもおびただしい数のものが贈られました。こういうのはお互いが1つ1つていねいに記録するのが習わしのようですね。