安政元年のはっけよい(5) 通訳ウィリアムズが見たスモウ

前回は,「ペリー提督日本遠征記」からペリーが初めて見た日本のスモウについての記述を紹介しました。
ちなみに,この膨大な「遠征記」は歴史家でもあるフランシス・L・ホークスがペリーの要請を受けて編纂したものです。ペリーはこのような記録に自分自身の言行の偏りが出るといけないと考え,編纂を依頼しました。
「前書き」でホークスは,この遠征記録の大部分はペリー提督の日誌と公式書簡であることを記述しています。こちらがホークス。

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また,ペリー自身も,自分の監修のもとに自分が提供した資料によって書かれた真実の記録であり,責任はすべて自分一人が負うと記述しています。

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前回,ペリーが初めて見たスモウの真に迫る描写を「遠征記」から見てみました。

「顔面は充血してふくれあがり,赤くなった皮膚を破っていまにも血が噴き出さんばかりの格闘が続き,巨体は動悸で波打った。ついに対戦者の一方が,その巨大な重量もろとも激しく地面に倒れると,助けられて起き上がり,土俵から退いた」

今回は,通訳者のウィリアムズが書いた「ペリー日本遠征随行記」から見てみます。

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「二人ずつ土俵にあがって来た。まずたがいに向い合ってしゃがみ,掌や脇の下に土をすりつけ,それからしっかりした足取りで土俵中央へと進んだ。ここで,たがいに膝小僧を押えたまま片脚ずつ交互に大きく広げて伸ばし,重々しい唸り声をあげて,どしんと足を土俵にめり込ませた

「こんなことで1分かそこらはかかったであろう」
とも書いています。現代の大相撲の立ち合いと同じですね。
子どもの頃,相撲中継を見てなぜすぐに取り組まないのか不思議でした。

さあ,取り組みが始まりました!

「やっと肩を摑み合い,相手を押し倒そうと力を尽くした。一方が力をしぼって頭を相手の胸板に突っ込んだ。受けた方はただ相手の体を捻って投げようとしたにすぎなかったが,これがうまく決まった。相手は力を出しつくしていたので,地響きを立てて大地に倒れた

ウィリアムズは,力士たちの傾向をこう書いています。

「どの男も重量感があって強そうであった。そして,一番大きな男が勝者として残った。狂ったような叫び声をあげて突進する者もいたが,えてして彼らは弱者であった」

彼らが初めて見る日本のスポーツ「スモウ」に関心を持ったことがわかりますが,必ずしも全員が相撲取りの強さを認めたわけではありませんでした。

このシリーズを書くきっかけになった「カルチャーラジオ」の谷釜尋徳教授によると,艦長秘書として同行したスポルディングは,力士はひどい肥満体でアメリカの格闘家と比較して著しく劣る,と酷評しているそうです。

スポルディングの「航海記」はペリーの「遠征記」公刊の1年前に出版されているようですが,スポルディングの個人的見解が多く含まれているそうです。

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スポルディングには,まあ異文化の異様な集団として映ったのでしょう。

これは前回も出てきた,随行画家ハイネが描いたスモウの様子。

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スモウを観戦したアメリカ人の中には「大関の小柳と相撲を取りたい!」という乗組員もいました。

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小柳常吉 VS アメリカ兵

さあ,このシリーズの目的,日米最初のスポーツ交流はどんな結果になったのでしょう!


つづく



この記事へのコメント

2024年09月27日 06:18
おはようございます。

 「ペリー提督日本遠征記」は、大衆に読まれることを意識して、編年体や日記体で書かれたものではなかったのですね。日誌(たぶん、「航海日誌=ログ」なのでしょう)と公式書簡を編纂したものだったのですね。生資料に近いので、俄然、食指が動きます(笑)
2024年09月27日 22:02
あきあかねさん
こんばんは。スポルディングが「力士はひどい肥満体でアメリカの格闘家と比較して著しく劣る」と酷評しているのに比べ,「ペリー提督日本遠征記」では著しい批判的な文章はないようです。これは一度ホークスが編纂する過程で誰が読んでもいいように濾過された文章になっていったのでしょうか。
まあ,ペリーもさすがに血まみれの取り組みには「胸のむかつく見世物」と書いたり,自分たちの電信機と小型機関車の日本側への公開については「啓蒙の不十分な国民に対して,科学と進取の精神の成果を意気揚々と示すもの」と書いています。これはアメリカ側向けの文章と言っていいでしょう。