幕末の外国人が見た富士山(2) 通訳官ウィリアムズ
幕末に日本にやって来たが外国人が富士山をどう記録したか,日本語訳ではありますが,前回の続き。
前回は「黒船」でやって来たペリー提督ですが,今回はその一行の首席通訳官のサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ。
彼が書いた「ペリー日本遠征随行記」より。
ちなみに,この本の正式な名前は, A Journal of the Perry expedition to Japan 「ペリー提督日本遠征艦隊の日誌」。
1953年,西洋暦の7月8日,ペリー一行は浦賀を目指しています。ウィリアムズはこう記録しています。
伊豆岬と相模岬(剣ヶ崎)との間にある河津湾に差しかかった。ここでは,ほとんど小船が見られなかった。われわれを認めた一隻の小船が帆を揚げて急速に接近してきたが,突然くるりと向きを変えて,フリース島(大島)に向かって引きつけられるかのように,かなりの速さで遠ざかっていった。二叉の頂をもち,そして他のそう高くない山々を従えた富士山が伊豆岬越しに遠くそびえていた。これらの山々は大体,雲で覆われていた。
翌年の2月13日には,冬の富士山の記述があります。
日の出近く,これまで眺めたうちでもっとも壮麗な光景の一つを,甲板にいた者たちは見た。(略)
富士山がまん前に純白の雪のマントに包まれて横たわり,見渡すかぎりの山々は大島をも含めて,みな目もくらむようにまぶしい白さだった。大島から立ち昇る噴煙が,山頂の上空にたなびいている輝く雲の中に消えてゆくのが,今やはっきりと見え,雲間を通して太陽の光がきわだって明るく射していた。(略)
太陽が昇ると,富士山やその他の山々の頂がバラ色に輝いた。なおも日が昇ると,彩色は失われていったが,この束の間の美しさが消えた後は,一面に日の光が輝いた。なんともすばらしい光景であった。
海の上からこんな富士山を見たら最高だろうなあ。富士山はその孤高性と雪の白さによってまさに神秘的です。
浮世絵で海上からの富士山と言えば,すぐに北斎が思い浮かびますが,歌川広重の「冨士三十六景 駿河三保之松原」ではこんなふうに描かれています。
つづく
前回は「黒船」でやって来たペリー提督ですが,今回はその一行の首席通訳官のサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ。
彼が書いた「ペリー日本遠征随行記」より。
ちなみに,この本の正式な名前は, A Journal of the Perry expedition to Japan 「ペリー提督日本遠征艦隊の日誌」。
1953年,西洋暦の7月8日,ペリー一行は浦賀を目指しています。ウィリアムズはこう記録しています。
伊豆岬と相模岬(剣ヶ崎)との間にある河津湾に差しかかった。ここでは,ほとんど小船が見られなかった。われわれを認めた一隻の小船が帆を揚げて急速に接近してきたが,突然くるりと向きを変えて,フリース島(大島)に向かって引きつけられるかのように,かなりの速さで遠ざかっていった。二叉の頂をもち,そして他のそう高くない山々を従えた富士山が伊豆岬越しに遠くそびえていた。これらの山々は大体,雲で覆われていた。
翌年の2月13日には,冬の富士山の記述があります。
日の出近く,これまで眺めたうちでもっとも壮麗な光景の一つを,甲板にいた者たちは見た。(略)
富士山がまん前に純白の雪のマントに包まれて横たわり,見渡すかぎりの山々は大島をも含めて,みな目もくらむようにまぶしい白さだった。大島から立ち昇る噴煙が,山頂の上空にたなびいている輝く雲の中に消えてゆくのが,今やはっきりと見え,雲間を通して太陽の光がきわだって明るく射していた。(略)
太陽が昇ると,富士山やその他の山々の頂がバラ色に輝いた。なおも日が昇ると,彩色は失われていったが,この束の間の美しさが消えた後は,一面に日の光が輝いた。なんともすばらしい光景であった。
海の上からこんな富士山を見たら最高だろうなあ。富士山はその孤高性と雪の白さによってまさに神秘的です。
浮世絵で海上からの富士山と言えば,すぐに北斎が思い浮かびますが,歌川広重の「冨士三十六景 駿河三保之松原」ではこんなふうに描かれています。
つづく
この記事へのコメント
ペリー一行は、冬の朝焼けの富士山を見たのですね。きっと晴れていて、空気が黄金色に輝いていたんでしょうね。ウィリアムズの描写が踊っています。
原文でも見てみたいのですが、難しいのでしょうか?
おはようございます。
なんとか原文を見つけましたので,次回はその紹介です。でも時間がないのでくわしくは読み込んでいません。