明治の外国人が見た富士山(3) エリザ・シドモア 後編

エリザ・シドモア一行の富士登山の続きです。

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現在の富士登山コースは4つありますが,須走(すばしり)村に寄っていること,古御岳神社を通った記述があるので今でいう「須走コース」でしょう。

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男性4人,女性3人,日本人2人の一行が雇ったポーターは15人。そのうち3名が1組となりそれぞれ女性につきます。
その3名は女性登山者を綱で結び引っ張り,竹竿につかまらせ,後ろから押します。

二合目基地と書いてあるところは現在の五合目だそうで,古御岳神社では正規の巡礼杖を購入し,神官が流暢な英語で「一本につき10銭頂きます」と応じました。

しかし,この後の登山はそううまくはいきません。
三合目を通過すると,雲が頂上を隠します
溶岩の傾斜地を避け無心に歩き,四合目の丸太小屋で休憩。

ベテラン登山家の2人が先を行き,残る全員も夕刻には追いつくつもりでした。
突然,漂っていた雲が襲いかかり,灰色の霧となって体を包みます。

一陣の風が雨を勢いよく吹き付け,雨の勢いは激しさを増しますが,風雨を押し分け前進します。
下山滑走道を発見しますが,前進コースを選び上を目指して登ります。

溶岩の陰で一休みすると,太陽が照ってきて上を再び目指すと,奔流が唸りながら上から押し寄せ,危うく大惨事になるところでした。

激しい風雨の中,2時間の厳しい登りの後,ようやく八合目の避難小屋に到着。
囲炉裏の上の垂木に濡れた衣類を乾かします。

体を暖め,ほつれたサンドイッチで息をつき,各人布団を二枚もらって休みますが,風の悲鳴は絶え間なく,突風に身の毛もよだちます。明かりは吊りランプ1つでした。
5日前に休憩所を開いたばかりの管理人がいることが救いです。

From Saturday until Tuesday, three endless days and as many nights, the whirling storm kept us prisoners in the dark, smoke filled rest-house. What had been the amusing incidents of one stormy night became our intolerable routine of life. Escape was impossible, even for the hardy mountaineers and pilgrims at the other end of the hut, and to unbar the door for a momentary outlook threatened the demolition of the shelter.

土曜日から火曜日まで三日三晩切れ目なく渦巻く嵐は,私たちを暗く煙の充満した小屋の中に囚人のごとく拘束しました。最初の一晩だけ面白い体験のつもりの嵐は,その後堪え難い生活日課を押しつけました。わがたくましき登山家も屋内片側の巡礼団も脱出は不可能で,観察のために閂をちょっと外すと,今にも小屋がつぶされそうになりました。


その後,空は晴れゆく天気を予想させ,雲が高く舞い上がります。
海抜3,000メートルから見晴らす気分は感慨一入です。山頂はうっすら晴れあがって接近しています。

登山家メンバーは残りの600メートルを30分で駆け登り,残りも高度に適応しながら慎重に隊列を組んで先発隊に続きます

噴火口の縁にある鳥居をくぐり,険しい溶岩の階段を登ると最終基地(十合目)へ到着。
日本酒がふるまわれますが,風が吹き始め,雲が立ち込める寸前に山頂到着!

再び濃密な雨の海原。噴火口の縁を一周する余裕もありません。
神社の手続きを急ぎ,神官から杖に焼印を押してもらったり,ハンカチや服にスタンプをしてもらったり,山頂登攀記念に挿絵入りの証明書をもらったり。

急いで下山です。
八合目の小屋ではお互いの駆け引きの末,会計を済ませます。
詳しい下山の様子は省略します。

At Subashiri we put on the few dry garments we had been fortunate enough to leave behind us. The tea-house windows framed vignettes of Fuji, a clear blue and purple cone in a radiant, clouddappled sky.

須走では,辛うじて残った財産からよく乾いた服をいくつか出し,身につけました。輝く斑雲の空に青と紫の円錐富士の姿が茶屋の窓からくっきりと見え,それは額縁に収まった風景画のようでした。


前回,富士山を母国のレーニア山と比較していたエリザですが,同じような山を持っていても,アメリカ人は「日本のように詩歌を好み自然を愛する国民ではない」「日本のような教養と伝統を残念ながら育んできていない」と書いています。

他にも箱根や三島などから見た富士山も記述していますが,キリがないのでやめておきます。

その代わりと言っては何ですが,エリザについては,この本を離れ,2つのことを書きたいと思います。

エリザ・シドモアは,ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜並木を作ることを提案した人物としても知られています。
エリザの桜並木計画は,1909年,タフト大統領の妻ヘレンが興味を示したことで現実化に向けて動きだします。

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このワシントンD.C.の桜については過去記事で。

→ 役者ウィリアム・ジレットと日本人・尾崎行隆

1991年にポトマック河畔から「里帰り」した桜が横浜外国人墓地等に植えられ、「シドモア桜」と名付けられています。

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そして,エリザについてもう1つ。

1896年には明治三陸地震津波の被災地に入って取材し,"The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan"を「ナショナル・ジオグラフィック・マガジン」1896年9月号に寄稿しています。

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「ナショナル・ジオグラフィック」に載ったこの写真もエリザが撮ったものでしょうか。Kamashi とあるので「釜石」のことでしょうか。

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さらに,この記事にある「tsunami」が英語文献における最古の使用例だそうです。

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今では「津波」tsunami は英語の辞書にも載っており,ニュースなどでも普通に使っています。

最後に,エリザ・シドモアが記録した世界の記述は日本の他に「アラスカ,シカト諸島」「ジャワ島」「インド」「中国」など広い地域にわたっています。



この記事へのコメント

2024年11月09日 07:01
おはようございます。

 シドモア女史の富士登山は、確かNHKで見たように思いました。ずいぶん昔ですね。あれ、「女人禁制」はどうやって解決したんだっけな?明治に入って直ぐ位に「女人禁制」が解けたと思ったんですけど…
 ま、それ以前、江戸時代後期に富士山に登った日本人女性が居たのですけど。
2024年11月10日 06:31
あきあかねさん
おはようございます。
NHKのその番組,今だったら必ず見るのですが,見たかったです。
富士登山をした外国人と女性についてはすでに閑話休題として書いており,明日の月曜日にアップする予定です。
エリザは兄が日本に長くいたので何度も訪れていますが,当時は船での移動,大変だったでしょうね。明治の三陸地震津波の被害調査に現地に入るなどかなりの活動家です。ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事にもなっています。