昭和の外国人が見た富士山 ブルーノ・タウト

幕末・明治の外国人が見た富士山について書いてきましたが,明治についてはフランス人画家ジョルジュ・ビゴーもまた富士山について描いていますが,彼の作品は挿絵や漫画,スケッチが主で文章ではないので,外します。

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では,このシリーズの最終回は昭和に入りますが,この人を外すわけにはいきません。
ドイツの建築家,ブルーノ・タウト Bruno Julius Florian Taut(1880 - 1938)

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1933年(昭和8年),彼はいわゆるユダヤ人ではありませんが,ナチス政権から逃れるために日本インターナショナル建築会の招聘で来日し,3年半滞在ました。
桂離宮を「現代における最大の世界的奇蹟」と称賛し,日本文化の再評価に大きな影響を与えたと言われます。

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著作はたくさんありますが,「ニッポン ――ヨーロッパ人の眼で見た――」(講談社学術文庫)より。

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この本は建築家・都市計画家の視点で多くのことが書かれていますが,「天皇と将軍」の章では富士山の記述があります。

山々は平野や海から非常に険しく屹立しているので(神戸の六甲山),他の国の山岳に比べて海抜はさほど高くはないにもかかわらず,雲の戯れや高さの印象は驚くばかり強められる。富士山はこの意味で山々の王である。それがまったく特異に見えるのは,一片の陸地もそこに考えられないような厚い雲の上に忽然としてその頂上を現す時である。この独特の姿でそれは私達の眼前にはじめて現れたのであった。このような風景を見ると,日本人が石や小さな池を使って,その風景の縮尺の模型を造る理由が理解される。このことはヨーロッパ風の観方からすれば,遊戯的である。しかし日本においては,室内や台所等に安置されてある,極度に縮小された神棚の場合と同じく,日本人は絶えずその国土を胸に描いているということを現しているのである。

上記の本にはタウトが車中からスケッチした富士山が載っています。最後の「風景の縮尺の模型」とは「箱庭」のことでしょうか。
どうも日本人はいつも胸の中に富士山がそびえる国土を思い描いているようです。

タウトは桂離宮だけでなく,富士山や渋谷のハチ公,ダルマ市などたくさんの写真を撮ったようです。彼の撮った富士山を見てみたいです。

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この表紙の絵はタウトが描いた富士山

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最後に,太宰治の「富嶽百景」の冒頭を青空文庫より。

太宰治 中期傑作選 走れメロス/東京八景/新ハムレット/富嶽百景/右大臣実朝 - 太宰 治
太宰治 中期傑作選 走れメロス/東京八景/新ハムレット/富嶽百景/右大臣実朝 - 太宰 治

 富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。たとへば私が、印度かどこかの国から、突然、鷲にさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。ニツポンのフジヤマを、あらかじめ憧れてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾のひろがつてゐる割に、低い。あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。
 十国峠から見た富士だけは、高かつた。あれは、よかつた。はじめ、雲のために、いただきが見えず、私は、その裾の勾配から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであらうと、雲の一点にしるしをつけて、そのうちに、雲が切れて、見ると、ちがつた。私が、あらかじめ印をつけて置いたところより、その倍も高いところに、青い頂きが、すつと見えた。おどろいた、といふよりも私は、へんにくすぐつたく、げらげら笑つた。やつてゐやがる、と思つた。人は、完全のたのもしさに接すると、まづ、だらしなくげらげら笑ふものらしい。全身のネヂが、他愛なくゆるんで、之はをかしな言ひかたであるが、帯紐といて笑ふといつたやうな感じである。諸君が、もし恋人と逢つて、逢つたとたんに、恋人がげらげら笑ひ出したら、慶祝である。必ず、恋人の非礼をとがめてはならぬ。恋人は、君に逢つて、君の完全のたのもしさを、全身に浴びてゐるのだ。
 東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆し、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟きのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。
 昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。
 甲州。ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚しい、なだらかさに在る。小島烏水といふ人の日本山水論にも、「山の拗ね者は多く、此土に仙遊するが如し。」と在つた。甲州の山々は、あるひは山の、げてものなのかも知れない。私は、甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠へたどりつく。



沼津からの富士山,というとラフカディオ・ハーンの回を思い出します。

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これは私が大学時代に太宰の足跡を追いかけて,御坂峠で撮った富士山の写真です。

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太宰は「ニッポンのフジヤマは外国人にとって憧れているからこそワンダフルなのだ」ということを書いています。となると,ネリー・ブライが富士山の記述を書かなかったのは,最初から憧れも何もなかったのでしょうか。

太宰は冒頭でちょっとだけ富士山をディスりました。しかしこれが太宰の真骨頂。
この「富嶽百景」は見事に計算された文章で,この冒頭があるからこそ,あの最後が生きてくるのです。


幕末~明治~昭和に日本を訪れた外国人が見た富士山,そして太宰の文章のこのシリーズ,お読みいただきありがとうございました。


この記事へのコメント

2024年11月17日 06:40
おはようございます。

 タウトの富士山の感想は科学者の様な文章ですね。とても説明的です。

 太宰の文章は、さすが太宰、と言う文で、太宰そのものが文の隅々に出て来ます(笑)
 それにしても、太宰にとって富士山は何だったのでしょう? 人生のよすが?  なんか、仏像を眺めているような文章なのですけど…
2024年11月17日 07:09
あきあかねさん
おはようございます。
アウトの文章は感想・思いというよりは分析ですね。ドイツ人らしさというよりはあくまでも建築家なんでしょうね。
太宰は富士山の出来過ぎに照れているんでしょうか。「富士には,月見草がよく似合ふ」。太宰は月見草側の人間でありたいと思っていたのかも。あるいは故郷の岩木山のほうが好みなのかな。
太宰の「津軽」から。

「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている一千六百二十五メートルの岩木山が,満目の水田の尽きるところに,ふわりと浮んでいる。実際,軽く浮んでいる感じなのである。したたるほど真蒼で,富士山よりもっと女らしく,十二単衣の裾を,銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく,静かに青空に浮んでいる。決して高い山ではないが,けれども,なかなか,透きとおるくらいに嬋娟たる美女ではある。

また,故郷,金木からの岩木山が好きだったみたいです。

私はこの旅行で,さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが,弘前から見るといかにも重くどっしりして,岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思う一方,また津軽平野の金木,五所川原,木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかった。西海岸から見た山容は,まるで駄目である。崩れてしまって,もはや美人の面影は無い。

富士山は出来過ぎなんです。あんなに美しい山が日本の中央にあって,しかもこの国でいちばん高いなんて・・・。