「ホーム」考(3) 青空文庫に見る「プラットフォーム」
先週,中島みゆきさんの歌「ホームにて」から,もともとは「プラットフォーム」なのに,いつから「ホーム」というようになったのかという疑問が生じました。今週はその疑問に迫りたいと思います。

日本初の鉄道が正式開業したのは1872年(明治5年),新橋駅で式典が催され,明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転し,翌日には営業運転を開始したそうです。

二葉亭四迷の「浮雲」(1887年)あたりに「プラットフォーム」が出てこないか青空文庫で探したのですが出てきませんでした。
ということで,夏目漱石から。
夏目漱石「坊っちゃん」(1906年)
第1章で「十年来召し使っている清(きよ)という下女」が見送りに来た場面はとても印象的です。
車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌よう」と小さな声で云った。目に涙が一杯たまっている。おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何だか大変小さく見えた。
夏目漱石「草枕」(1906年)
一行は 揃って 改札場 を通り抜けて、プラットフォームへ出る。 号鈴 ( ベル ) がしきりに鳴る。

ここからは時代がかなり下がりますが・・・
宮沢賢治「春と修羅」第三集 1001 1927.2.12
プラットフォームは眩ゆくさむく
緑に塗られたシグナルや
きららかに飛ぶ氷華のなかを
あゝ狷介に学士は老いて
いまは大都の名だたる国手
昔の友を送るのです

堀辰雄「風立ちぬ」(1938年)
すっかりプラットフォームを離れると、私達は窓を締めて、急に淋しくなったような顔つきをして、空いている二等室の一隅に腰を下ろした。

太宰治「女類」(1948年)
君は、ためしてみた事があるかね。駅のプラットフォームに立って、やや遠い風景を眺ながめ、それから、ちょっと二、三寸、腰を低くして、もういちど眺めると、その前方の同じ風景が、まるで全然かわって見える。

坂口安吾「小林さんと私のツキアイ」(1951年)
越後川口で降りるとき、彼は私の荷物をひッたくッて、急げ急げと先に立って降車口へ案内して、私を無事プラットフォームへ降してくれた。
この小林さんとは小林秀雄のことです。

こうして見ると,明治から昭和の戦後まで普通に「プラットフォーム」を使っていたことがわかります。今では「ホーム」が一般的ですが,「プラットフォーム」でもある程度通じるでしょう。
次回は「プラットホーム」を見てみます。

日本初の鉄道が正式開業したのは1872年(明治5年),新橋駅で式典が催され,明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転し,翌日には営業運転を開始したそうです。

二葉亭四迷の「浮雲」(1887年)あたりに「プラットフォーム」が出てこないか青空文庫で探したのですが出てきませんでした。
ということで,夏目漱石から。
夏目漱石「坊っちゃん」(1906年)
第1章で「十年来召し使っている清(きよ)という下女」が見送りに来た場面はとても印象的です。
車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌よう」と小さな声で云った。目に涙が一杯たまっている。おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何だか大変小さく見えた。
夏目漱石「草枕」(1906年)
一行は 揃って 改札場 を通り抜けて、プラットフォームへ出る。 号鈴 ( ベル ) がしきりに鳴る。

ここからは時代がかなり下がりますが・・・
宮沢賢治「春と修羅」第三集 1001 1927.2.12
プラットフォームは眩ゆくさむく
緑に塗られたシグナルや
きららかに飛ぶ氷華のなかを
あゝ狷介に学士は老いて
いまは大都の名だたる国手
昔の友を送るのです

堀辰雄「風立ちぬ」(1938年)
すっかりプラットフォームを離れると、私達は窓を締めて、急に淋しくなったような顔つきをして、空いている二等室の一隅に腰を下ろした。

太宰治「女類」(1948年)
君は、ためしてみた事があるかね。駅のプラットフォームに立って、やや遠い風景を眺ながめ、それから、ちょっと二、三寸、腰を低くして、もういちど眺めると、その前方の同じ風景が、まるで全然かわって見える。

坂口安吾「小林さんと私のツキアイ」(1951年)
越後川口で降りるとき、彼は私の荷物をひッたくッて、急げ急げと先に立って降車口へ案内して、私を無事プラットフォームへ降してくれた。
この小林さんとは小林秀雄のことです。

こうして見ると,明治から昭和の戦後まで普通に「プラットフォーム」を使っていたことがわかります。今では「ホーム」が一般的ですが,「プラットフォーム」でもある程度通じるでしょう。
次回は「プラットホーム」を見てみます。
この記事へのコメント
私が初めて「プラットフォーム」と言う言葉を覚えたのが「坊ちゃん」のこのシーンでしたので懐かしかったです。あれは小学校の国語の授業だったと思います。この「きよ」と言う下女と、私の祖母が重なったのでこのシーンを覚えてるのだと思うのですが、結構昔の事なのに、我ながらよく覚えているなあ…
就学前、私はよく明治生まれの祖母に手を引かれて汽車に乗り、仙台に来ていました。そういうこともあり、その頃の私は「プラットホーム」と言う言葉ではなく、「停車場」と言う言葉で憶えていました。なので、「プラットフォーム」と言う言葉は、何か新しく、都会的なイメージを今でも持っています。
おはようございます。
この清との別れのシーンは昔中学校の国語の教科書にも載っていましたが今でも載っているのでしょうか。とてもいいシーンで,この場面は私が大学に進学するときに駅のホームまで見送ってくれた祖母を思い出します。涙が出ます。「北の国から」で純君が東京に向かうとき父親が見送ったシーンを見たときにこれまた泣いてしまいました。
私は「プラットフォーム」は使ったことがないと思います。もう「ホーム」と呼んでいたかなあ。