「ホーム」考(4) 青空文庫に見る「プラットホーム」
もともとは「プラットフォーム」なのに,いつから「ホーム」というようになったのかという疑問について書いています。
その疑問の途中には,当然「プラットホーム」という言い方があると思われます。
前回,「プラットフォーム」と書いていた宮沢賢治は数年後,「プラットホーム」という言い方を使っています。
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」(1934年初出)
早くも、シグナルの緑の燈(あかり)と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのおのようなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。

ところが,前回,戦後の1948年に「プラットフォーム」を使っていた太宰治はそれ以前に「プラットホーム」を使っていた例が見つかります。
太宰治「帰去来」(1943年)
プラットホームで私は北さんにお金を返そうとしたら、北さんは、
「はなむけ、はなむけ。」と言って手を振った。
太宰治「十五年間」(1946年)
どんな列車でもいいから、少しでも北へ行く列車に乗ろうと考えて、翌朝五時十分、白河行きの汽車に乗った。十時半、白河着。そこで降りて、二時間プラットホームで待って、午後一時半、さらに少し北の小牛田(こごた)行きの汽車に乗った。窓から乗った。

以下の2例は,さらに遡り,1930年代にすでに「プラットホーム」を使っていた例です。
中原中也「秋の一日」 「山羊の歌」(1931年)より
水色のプラットホームと
躁(はしや)ぐ少女と嘲笑(あざわら)ふヤンキイは
いやだ いやだ!

江戸川乱歩「怪人二十面相」(1936年)
賊は、窓の外につきだされた明智のハンカチと、プラットホームの小林少年の姿とを、見くらべながら、くやしそうにしばらく考えていましたが、けっきょく、不利をさとったのか、やや顔色をやわらげていうのでした。

漱石には「プラットフォーム」の使用例は見つかりますが「プラットホーム」の使用例は見つかりません。
時は流れ,二十数年後には中原中也や宮沢賢治は「プラットホーム」を使っています。
また,戦前戦後には両方の使用例が見られます。
「フォーム」が「ホーム」と発音されたり,表記されるのは「ユニフォーム」→「ユニホーム」の例からも自然なことと思われます。
実際に,昭和29年3月15日に国語審議会の術語・表記合同部会が「外来語の表記について」で次のように書いています。
外来語表記の原則
(中略)
10
原音における「ファ」「フィ」「フェ」「フォ」・「ヴァ」「ヴィ」「ヴ」「ヴェ」「ヴォ」の音は,なるべく「ハ」「ヒ」「ヘ」「ホ」・「バ」「ビ」「ブ」「ベ」「ボ」と書く。
プラットホーム(platform)
ホルマリン(Formalin) バイオリン(violin)
ビタミン(Vitamin) ベランダ(veranda)
ただし,原音の意識がなお残っているものは,「ファ」「フィ」「フェ」「フォ」・「ヴァ」「ヴィ」「ヴ」「ヴェ」「ヴォ」と書いてもよい。
ファインプレー(fine-play)
フェミニスト(feminist) ヴェール(veil)
ヴォキャブラリー(vocabulary)
(注記)国語審議会総会において,この条項について,たとえば「フェルト」か「フエルト」か,「フィルム」か「フイルム」かをめぐって,(1)外来語の発音の事実をどう認めるか,(2)その事実をどうかなで書き表わすか,(3)その発音なり表記なりを決定するとき現実どおりにするか将来を考えるか,(4)その考えにも簡易化のほうに向かって考えるか,日本語の音を豊富にするほうに向かって考えるかについて論議された。
これは昭和29年の報告ですし,作家は別に国が定めた表記を意識はしていないでしょう。
ただ,日本語の動きとして全体的にこのような傾向があったのでしょう。
次回は「ホーム」の使用例を見てみます。
その疑問の途中には,当然「プラットホーム」という言い方があると思われます。
前回,「プラットフォーム」と書いていた宮沢賢治は数年後,「プラットホーム」という言い方を使っています。
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」(1934年初出)
早くも、シグナルの緑の燈(あかり)と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのおのようなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。

ところが,前回,戦後の1948年に「プラットフォーム」を使っていた太宰治はそれ以前に「プラットホーム」を使っていた例が見つかります。
太宰治「帰去来」(1943年)
プラットホームで私は北さんにお金を返そうとしたら、北さんは、
「はなむけ、はなむけ。」と言って手を振った。
太宰治「十五年間」(1946年)
どんな列車でもいいから、少しでも北へ行く列車に乗ろうと考えて、翌朝五時十分、白河行きの汽車に乗った。十時半、白河着。そこで降りて、二時間プラットホームで待って、午後一時半、さらに少し北の小牛田(こごた)行きの汽車に乗った。窓から乗った。

以下の2例は,さらに遡り,1930年代にすでに「プラットホーム」を使っていた例です。
中原中也「秋の一日」 「山羊の歌」(1931年)より
水色のプラットホームと
躁(はしや)ぐ少女と嘲笑(あざわら)ふヤンキイは
いやだ いやだ!

江戸川乱歩「怪人二十面相」(1936年)
賊は、窓の外につきだされた明智のハンカチと、プラットホームの小林少年の姿とを、見くらべながら、くやしそうにしばらく考えていましたが、けっきょく、不利をさとったのか、やや顔色をやわらげていうのでした。

漱石には「プラットフォーム」の使用例は見つかりますが「プラットホーム」の使用例は見つかりません。
時は流れ,二十数年後には中原中也や宮沢賢治は「プラットホーム」を使っています。
また,戦前戦後には両方の使用例が見られます。
「フォーム」が「ホーム」と発音されたり,表記されるのは「ユニフォーム」→「ユニホーム」の例からも自然なことと思われます。
実際に,昭和29年3月15日に国語審議会の術語・表記合同部会が「外来語の表記について」で次のように書いています。
外来語表記の原則
(中略)
10
原音における「ファ」「フィ」「フェ」「フォ」・「ヴァ」「ヴィ」「ヴ」「ヴェ」「ヴォ」の音は,なるべく「ハ」「ヒ」「ヘ」「ホ」・「バ」「ビ」「ブ」「ベ」「ボ」と書く。
プラットホーム(platform)
ホルマリン(Formalin) バイオリン(violin)
ビタミン(Vitamin) ベランダ(veranda)
ただし,原音の意識がなお残っているものは,「ファ」「フィ」「フェ」「フォ」・「ヴァ」「ヴィ」「ヴ」「ヴェ」「ヴォ」と書いてもよい。
ファインプレー(fine-play)
フェミニスト(feminist) ヴェール(veil)
ヴォキャブラリー(vocabulary)
(注記)国語審議会総会において,この条項について,たとえば「フェルト」か「フエルト」か,「フィルム」か「フイルム」かをめぐって,(1)外来語の発音の事実をどう認めるか,(2)その事実をどうかなで書き表わすか,(3)その発音なり表記なりを決定するとき現実どおりにするか将来を考えるか,(4)その考えにも簡易化のほうに向かって考えるか,日本語の音を豊富にするほうに向かって考えるかについて論議された。
これは昭和29年の報告ですし,作家は別に国が定めた表記を意識はしていないでしょう。
ただ,日本語の動きとして全体的にこのような傾向があったのでしょう。
次回は「ホーム」の使用例を見てみます。
この記事へのコメント
なるほどです。
国語審議会の審議もそうなのですが、日本語においては黙っていても「ハ行」の発音は揺れ動いています。時代によって然り、地方によっても然り、です。ましてや、日本語に無い「F」音や「ph」音などは、話者によって十人十色の発音になるでしょうし、それに依ってカナ表記もさまざまになってしまうのでしょうね。
おはようございます。
けっこう私から見て祖父祖母の時代の人で「ディ」や「フォ」を発音できない人がいたように思います。
次回は「ホーム」に行くつもりでしたが,啄木の文章でおもしろいものを見つけたので寄り道します。