「ホーム」考(7) まとめ「プラットフォーム」がいつ頃「ホーム」へ?

さて,このタイトルに迫りたいと思います。
「プラットフォーム」がいつ頃「ホーム」へ? 今日がまとめです。

3home.jpg

最初に「プラットフォーム」を使った小説家は誰なのか?
坪内逍遥や二葉亭四迷の作品を青空文庫で検索しましたが,二葉亭四迷の「平凡」という作品には出てくるのですが,漱石の「坊っちゃん」の1年後です。私が見つけることができた最古の例は「坊っちゃん」でした。

夏目漱石(小).jpg

では,これまで出てきた文章を年代順に並べましょう。

夏目漱石「坊っちゃん」(1906年)
車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌よう」と小さな声で云った。

夏目漱石「草枕」(1906年)
一行は 揃って 改札場 を通り抜けて、プラットフォームへ出る。

石川啄木「鳥影」(初出1908年「東京毎日新聞」)
其一
午前十一時何分かに着く筈の下り列車が、定刻を三十分も過ぎてるのに、未だ着かない。姉妹を初め、三四人の乘客が皆もうプラットフォームに出てゐて、はるか南の方の森の上に煙の見えるのを、今か今かと待つてゐる。
(中略)
『來た、來た。』と、背の低い驛夫が叫んだので、フォームは俄かに色めいた
其六
チラと其時、向側のプラットホームに葡萄茶(えびちや)の袴を穿いた若い女の立つてゐるのが目についた。

宮沢賢治「春と修羅」第三集 1001 1927.2.12
プラットフォームは眩ゆくさむく/緑に塗られたシグナルや/きららかに飛ぶ氷華のなかを/あゝ狷介に学士は老いて/いまは大都の名だたる国手/昔の友を送るのです

中原中也「秋の一日」 「山羊の歌」(1931年)より
水色のプラットホームと/躁(はしや)ぐ少女と嘲笑(あざわら)ふヤンキイは/いやだ いやだ!

宮沢賢治「銀河鉄道の夜」(1934年初出)
早くも、シグナルの緑の燈(あかり)と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのおのようなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。

原民喜「飯田橋駅」(1935年 短編集「焔」より)
飯田橋のプラットホームは何と云ふ快い彎曲なのだらう。
(中略)
今、ホームには電気ブランで足をとられた中年の紳士が二人、これはぜんまいの狂ったロボットのやうにガクリガクリと今にも線路へ堕こちさうである。

江戸川乱歩「怪人二十面相」(1936年)
賊は、窓の外につきだされた明智のハンカチと、プラットホームの小林少年の姿とを、見くらべながら、くやしそうにしばらく考えていましたが、けっきょく、不利をさとったのか、やや顔色をやわらげていうのでした。

堀辰雄「風立ちぬ」(1938年)
すっかりプラットフォームを離れると、私達は窓を締めて、急に淋しくなったような顔つきをして、空いている二等室の一隅に腰を下ろした。

小川未明「夕焼けが薄れて」(1940年「夜の進軍喇叭」より)
ゴウ、ゴウ、と、ひびきをたて、電車がホームへ入はいると、まもなく、どやどやと階段を降りて、人々が先を争そって、改札口から外へ出てきました。

宮本百合子「三月の第四日曜」(1940年「日本評論」より)
速力をおとしてホームに辷りこんで来た列車の、ずっと後方の一つの窓から、日の丸の紙旗の出ているのが見えた。

太宰治「待つ」(1942年)
上り下りの電車がホームに到着するごとに、たくさんの人が電車の戸口から吐き出され、どやどや改札口にやって来て、一様に怒っているような顔をして、パスを出したり、切符を手渡したり、それから、そそくさと脇目も振らず歩いて、私の坐っているベンチの前を通り駅前の広場に出て、そうして思い思いの方向に散って行く。

太宰治「帰去来」(1943年)
プラットホームで私は北さんにお金を返そうとしたら、北さんは、「はなむけ、はなむけ。」と言って手を振った。

谷崎潤一郎「細雪」(初出1943年)
いつも音楽会と云えば着飾って行くのに、分けても今日は個人の邸宅に招待されて行くのであるから、精一杯めかしていたことは云うまでもないが、折柄の快晴の秋の日に、その三人が揃って自動車からこぼれ出て阪急のフォームを駈け上るところを、居合す人々は皆振り返って眼を欹(そばだ)てた。

太宰治「十五年間」(1946年)
どんな列車でもいいから、少しでも北へ行く列車に乗ろうと考えて、翌朝五時十分、白河行きの汽車に乗った。十時半、白河着。そこで降りて、二時間プラットホームで待って、午後一時半、さらに少し北の小牛田(こごた)行きの汽車に乗った。

織田作之助「郷愁」(1946年「真日本」より)
大阪行のプラットホームにぽつんと一つ裸電燈を残したほか、すっかり灯を消してしまっている。いつもは点っている筈の向い側のホームの灯りも、なぜか消えていた。

坂口安吾「教祖の文学 ――小林秀雄論――」(1947年「新潮」より)
去年、小林秀雄が水道橋のプラットホームから墜落して不思議な命を助かったという話をきいた。
(中略)
人ッ子一人いない。これは又徹底的にカンサンな駅があるもので、人間が乗ったり降りたりしないものだから、ホームの幅が何尺もありやしない。背中にすぐ貨物列車がある。そのうちに小林の乗った汽車が通りすぎてしまうと、汽車のなくなった向う側に、私よりも一段高いホンモノのプラットホームが現われた。人間だってたくさんウロウロしていらあ。あのときは呆れた。私がプラットホームの反対側へ降りたわけではないので、小林秀雄が私を下ろしたのである。

林芙美子「崩浪亭主人」(1947年「小説新潮」)
砂風の吹く、うそ寒い日である。ホームを驛員が水を撒いてゐる。

太宰治「女類」(1948年)
君は、ためしてみた事があるかね。駅のプラットフォームに立って、やや遠い風景を眺ながめ、それから、ちょっと二、三寸、腰を低くして、もういちど眺めると、その前方の同じ風景が、まるで全然かわって見える。

豊島与志雄「悲しい誤解」(初出1949年「女性改造」)
駅のフォームに駆け上ると、急に酔いがぶり返して、ふらふらした。電車の時刻までにはまだだいぶ間があった。フォームの先端まで行き、屈みこんで息をついた。

坂口安吾「小林さんと私のツキアイ」(1951年)
越後川口で降りるとき、彼は私の荷物をひッたくッて、急げ急げと先に立って降車口へ案内して、私を無事プラットフォームへ降してくれた。

片山廣子「燃える電車」(1953年)
昭和二十六年四月二十四日、午後一時四十分ごろ、京浜線桜木町ゆき電車が桜木町駅ホームに正に入らうとする直前、最前車の屋根から火花を発して忽ちの間に一番目の車は火の海となり、あわてて急停車したが、(以下略)

「なごり雪」(1974年 伊勢正三作詞・作曲)
♪君が去った ホームに残り 落ちてはとける 雪を見ていた

3iruka.jpg

これまでシリーズで多くの使用例を集めてきたのはこのためです。
とは言っても,すべての使用例を集めるのは不可能ですし,データとしては制作年と発表年のズレはあるでしょう。
メジャーな作家中心ですが,傾向としてのデータだと思ってください。


まとめ1(それぞれの言葉の使用時期)

「プラットフォーム」
夏目漱石の「坊っちゃん」(1906年)には見ることができ,1930~1950年代まで使用例(堀辰雄,太宰治,坂口安吾)を見つけることができる。今でも意味は通じる。

「フォーム」
もちろん「プラットフォーム」を省略した形。1908年の「東京毎日新聞」には石川啄木が書いた文章に「プラットフォーム」の後でこの形を見つけることができる。1943年の谷崎潤一郎の「細雪」では「阪急のフォームを駈け上る」,1949年の「女性改造」では豊島与志雄が書いた文章に「駅のフォーム」「フォームの先端」という使用例がある。現在ではあまり聞かないと思われる。

「プラットホーム」
昭和29年の国語審議会「外来語の表記について」を待つまでもなく,「フォ」の発音が「ホ」となることは日本語として自然なことと思われる。前述の1908年「東京毎日新聞」で石川啄木は「プラットフォーム」「フォーム」とともに「プラットホーム」も使っている。中原中也の詩集「山羊の歌」(1931年)に出てくる「プラットホーム」をはじめ1930年代からはこの表現が多くなる。宮沢賢治,原民喜,江戸川乱歩,太宰治,織田作之助,坂口安吾,などで1940年代は使用例が多くみられる

「ホーム」
「プラットホーム」の省略で,1935年に原民喜は「飯田橋のプラットホーム」と言う表現の後で「今,ホームには」と略した形で書いている。1940年には単独で使われ,小川未明が「電車がホームへ入ると」,宮本百合子が「ホームに辷りこんで列車」と書いている。その後は多くの作家が「プラットホーム」との並記または単独で使って今に至る。


まとめ2(「プラットフォーム」がいつ頃「ホーム」へ?)

これが,このシリーズを書くきっかけです。
結論を簡単に言うなら,検証例は少ないかもしれませんが,1930年代ではないかと思われます。
でも,その後も「プラットフォーム」「フォーム」「プラットホーム」も混在しているのは上記の通り。

例えば,太宰治に限ってみても・・・

太宰治1.jpg

太宰治「待つ」(1942年)
上り下りの電車がホームに到着するごとに

太宰治「帰去来」(1943年)
プラットホームで私は北さんにお金を返そうとしたら

太宰治「十五年間」(1946年)
そこで降りて、二時間プラットホームで待って

太宰治「女類」(1948年)
駅のプラットフォームに立って、やや遠い風景を眺ながめ


「ホーム」→「プラットホーム」→「プラットフォーム」
歴史に逆行するみたいです(笑)。つまりどの言い方も可能なのです。

すべての結論はこれ。「どの言い方も可能」
ただし,「なごり雪」の例や駅のアナウンスを聞くまでもなく,現在は省略形「ホーム」が最も使用例が多いと思われます。


ただ,あいみょんの「ハルノヒ」(2019年)ではこう歌っています。

北千住駅のプラットホーム 銀色の改札
思い出話と想い出ふかし 腰掛けたベンチで
僕らは何も 見えない未来を誓い合った




「プラットホーム」も健在です。


これまで読んでいただき,ありがとうございました。



この記事へのコメント

2024年12月21日 07:13
おはようございます。

 労作、楽しく読ませていただきました。『すべての結論はこれ。「どの言い方も可能」』というご考察が大変興味深かったです。
 それにしても、夏目漱石は日本語の外来語ボキャブラリーに多大な貢献をしている、というか、日本語の幅を広げた人ですね。やはり偉大な作家の一人だと思います。
2024年12月22日 07:22
あきあかねさん
おはようございます。
なんとかまとめる(?)ことができました。とにかく例文を集めて,そこから傾向をさぐるしかないかなと思っていました。結論としては「フォーム」以外は今でも普通に使っても通じるかなということ。
寒波が来るみたいです。月曜日の雪は交通渋滞などを引き起こすので今から備えておかないとなあ。