「ハムレット」と夏目漱石

3回連続でシェイクスピアの「ハムレット」について書いてきました。
前回は漱石が「ハムレット」を下敷きにして書いた一句に触れました。

漱石は1900年から約2年間のロンドン留学ではシェイクスピアの研究も行っていますので,当然「ハムレット」も読み親しんでいます。

1903年には前々回で書いたように,日本では川上音二郎一座により華族のお家騒動に翻案した「ハムレット」が初上演。
1904年,前回書いた東京帝大の教え子の小松武治が,チャールズ・ラムがシェイクスピアの作品群を要約した「沙翁物語集」を翻訳し,漱石が序を執筆。
1907年,坪内逍遥訳「ハムレット」が初上演。
1911年には帝国劇場で坪内逍遥訳・演出で本邦初の全幕公演。

この人が漱石も太宰も「博士」と呼んでいる坪内逍遥。

坪内逍遥.jpg

この帝劇「シェイクスピア」は1週間公演され,興行的には大成功だったそうです。そして,なんとこの観客の中の1人が夏目漱石でした。(以下,小野昌著「坪内逍遥とシェイクスピア ――帝劇『ハムレット』をめぐって――」PDFを参考にしました。)

夏目漱石(松山).jpg

漱石は「東京朝日新聞」に2回にわたり劇評を書きましたが,それはけして好評というものではありませんでした。

おそらく,漱石にとってシェイクスピアは詩人であり,300年後の日本人がおもしろく鑑賞する対象ではなかったようです。
つまりシェイクスピアの作品は,その詩を理解できる人のみが味わえる劇であるということ。
本場のイギリスにおいてさえ,役者が詩を理解していないがために劇を台なしにしてしまうということ。

坪内逍遥の翻訳については苦心を認めながら,「博士がシェイクスピアに対してあまりに忠実になろうとしたがために,無理な日本語を製造」した結果,観客に不忠実になったと不満を持ったようです。

もちろん,シェイクスピアの詩を大事にしている点では逍遥も漱石も同じであり,漱石もまた翻訳をしていれば比べようがあるのでしょうが,漱石は翻訳不可能論者のようで,まあどんな翻訳でも満足しなかったでしょう。

漱石にとってはシェイクスピアは詩人であり,研究対象なのです。

以上,「坪内逍遥とシェイクスピア」からの参考を終わります。


今日も前置きが長くなりましたが,実は漱石は坪内逍遥訳初上演の1年前「草枕」の中で「ハムレット」について触れています。(これは現在の新潮文庫ですが。)

草枕 (新潮文庫) - 漱石, 夏目
草枕 (新潮文庫) - 漱石, 夏目

山路を登りながら,こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。


この冒頭はあまりにも有名です。大学生のときに読みましたが,内容をあまり覚えていないのは,この小説がストーリーと言うよりは芸術論のような内容だからか。

「草枕」は1906年(明治39年),「新小説」に掲載。
この小説の出来の良さが漱石の朝日新聞入社が持ち上がるきっかけになったと言います。

青空文庫から「ハムレット」に関する部分を抜き出してみましょう。

第一章より。

二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気な扁舟を泛(うか)べてこの桃源に溯るものはないようだ。余は固より詩人を職業にしておらんから、王維や淵明の境界を今の世に布教して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人絵の具箱と三脚几を担いで春の山路をのそのそあるくのも全くこれがためである。

第二章より。

不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速取り崩す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳く彗星の何となく妙な気になる。


オフェリヤとは前回の記事で書いた,ハムレット最愛の女性オフィーリアのこと。
ハムレットが叔父と間違って刺殺してしまったポローニアスの娘。

父親と恋人を失い乙女心が傷ついたオフィーリアは気がおかしくなってしまい,事故で水死してしまいます。
「ミレーのかいた,オフェリアの面影」とはこの有名な絵のことです。

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ミレーとは,19世紀のイギリスの画家,サー・ジョン・エヴァレット・ミレー Sir John Everett Millais(1829-1896)のこと。

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絵画「オフィーリア」(1852年)は,ミレー自身及びヴィクトリア朝の最高作とも言われます。1862年のロイヤル・アカデミー展に出品されました。テート・ブリテン美術館収蔵。

漱石もハムレット同様気に入って取り上げた絵画「オフィーリア」。
この絵は今でも映画やアニメの中で使われたり,モチーフとして用いられたりしています。

これは「草枕絵巻」より山本丘人作「水の上のオフェリア」(原題「美しき屍」) 1926年。

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今思えば,このCMもこのオマージュだったのかな。



真偽は定かではありませんが・・・。



この記事へのコメント

2025年01月06日 07:30
おはようございます。

 キンチョウのCMはひとまず置いておいて(笑)、ミレーのこの絵は高校生の時に見ているのですが、その奇妙な美しさにすごいインパクトがありましたね。

 個人的な感想なのですが、、、シェークスピア劇は音楽に乗りやすいように思えるのですがどうでしょう? 
 元々が吟遊詩人の“かたり”を進行役にした演劇ですし、古英語が韻文的ですし、オペラのように進めやすいと思うのです。劇団の人達が台本に坪内逍遥の翻訳を使いたがるのも、韻文的な台詞回しを求めているからなのではないでしょうかねえ…
2025年01月07日 06:14
あきあかねさん
おはようございます。発熱後5日間が過ぎ,昨日社会復帰しました。体力的に落ちています。
シェイクスピアの文は音読してこそその詩的価値がわかるのだと思います。文や句の良し悪しは何度も口にしてみよ,という芭蕉の考えに通じます。
漱石は「オフェリアの合掌して水の上を流れて行く姿」と書いていますが,合掌はしていないんですよね。このあたりは漱石の勘違いでしょうか。今だったら画像検索がすぐにできますが,このあたりは漱石の記憶の中でちょっとねじれたのでしょう。