鶉衣(3) 物忘翁(忘れんぼじいさん)のすすめ
横井也有の俳文集「鶉衣」から,前回の「螻翁」(おけらじいさん)に続き,早速ですが次の話。
今日もラジオで安田登さんが読んでくれた話から。

也有は子どもの頃から物忘れが激しかったそうです。昨日詠んだ句も今日は忘れてしまう。
手のひらに書いておくんだけども,それでも忘れちゃう。
だから人は自分と約束をしたがらない。
でも,也有はそれはそれでよかったねと開き直ってしまう。
いいこともいくつかある。
どうも年寄りは同じ話を何度もしたがる。
すると聞いている人たちは,またかとトイレに行ってしまう。
ところが自分は全然覚えていないから,毎回新鮮に聞くことができる(笑)。

「鶉衣」前編中 「物忘翁伝」より
わすれ草生ふる住よしのあたりに住みわびたる物わすれの翁あり。さるは健忘などいへる病の筋にはあらで、只身のおろかに生れつきて、物覺のおろそかなるにぞありける。昔は經學の道をもとひきゝ、作文和歌の席などにも、さそふ人あればまじらひけれど、きく事習ふ事のさすがに面白しと思ふ物から、夕べに覺えしことごとも、朝ぼらけにはこぎ行舟の跡なくて、身にも心にものこる事すくなし。されば是を書付置かむと、しゐて硯ならし机によれば、春の日はてふ鳥に心うかれて過ぎ、秋の夜は虫なきていとねぶたし。かくてぞ老曾の森の草、かりそめの人のやくそくも、小指を結び手のひらにしるしても、行水の數かくはかなさ、人もわらひても罪ゆるしつべし。さればその翁のいへりける、身のとり所なきを思ふに、若きにかずまへられしほどは、人やりならずはづかしかりしが、つんぼうの雷にさはがず、座當の蛇におどろかざるこぼれ幸なきにもあらず。よのつねきゝわたる茶のみ語りも、はじめ聞ける事の耳にのこらねば、世に板がへしといふ咄ありて、またかの例の大坂陣かと、若き人々はつきしろひて、小便にもたつが中にも、我は何がし僧正のほとゝぎすならねど、きくたびにめづらしければ、げにときくかひある翁かなと、かたる人は心ゆきても思ふべし。ましてつねづね手馴れ古せし文章物がたりの双帋も、去年見しことはことし覺えず、春よみしふみは秋たどたどしく、又もくりかへしみる時は、只あらたなる文にむかふ心地して、あかず幾たびも面白ければ、わづか兩三帙の書籍ありて、心のたのしみさらに盡くる事なし。むかし炎天に腹をさらしたるおのこは、人にもおりおり物をとはれて、とりまがはしいひたがへじと、いかにかしましき心かしけん。今は中々うれしき物わすれかなとぞいひける。猶かの翁が家の集に、何の本歌をかとりけるならむ、
わすれてはうちなげかるゝ夕べかなと
物 覺 え よ き 人 は よ み し か
文章中,色を変えた部分が安田登さんが読み上げた部分。
げにとき(聞)くかひある翁かと
聞き上手なおじいさん,これが也有のすごさです。
もう1つは,昨日読んだ本も今日忘れているので・・・
わづか両三帙の書籍ありて,心のたのしみさらに尽くる事なし。
「帙」(ちつ)は本のカバーのようなもの。本も数冊あればいい。
最後の和歌・・・
わすれてはうちなげかるゝ夕べかなと 物覚えよき人はよみしか
前半「わすれてはうちなげかるゝ夕べかな」は新古今和歌集から式子内親王の
忘れてはうちなげかるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を
から本歌取りをしています。
物覚えがいい人は,こんな歌を詠みましたけどね。
前回の「おけらじいさん」に続き「忘れんぼじいさん」のすすめ。
もちろん,この物忘れは老人性の認知症が原因でも健忘症などの病気が原因でもありません。
生まれつきの物忘れ。そんなおじいさんです。
そんな人いるのか!? と思ってしまいますが,これは極端な話をしているのでしょう。
つまり,「おけらじいさん」同様,記憶というこだわりを捨てたときに,人間楽しく生きられるのではないでしょうか。
今日もラジオで安田登さんが読んでくれた話から。
也有は子どもの頃から物忘れが激しかったそうです。昨日詠んだ句も今日は忘れてしまう。
手のひらに書いておくんだけども,それでも忘れちゃう。
だから人は自分と約束をしたがらない。
でも,也有はそれはそれでよかったねと開き直ってしまう。
いいこともいくつかある。
どうも年寄りは同じ話を何度もしたがる。
すると聞いている人たちは,またかとトイレに行ってしまう。
ところが自分は全然覚えていないから,毎回新鮮に聞くことができる(笑)。
「鶉衣」前編中 「物忘翁伝」より
わすれ草生ふる住よしのあたりに住みわびたる物わすれの翁あり。さるは健忘などいへる病の筋にはあらで、只身のおろかに生れつきて、物覺のおろそかなるにぞありける。昔は經學の道をもとひきゝ、作文和歌の席などにも、さそふ人あればまじらひけれど、きく事習ふ事のさすがに面白しと思ふ物から、夕べに覺えしことごとも、朝ぼらけにはこぎ行舟の跡なくて、身にも心にものこる事すくなし。されば是を書付置かむと、しゐて硯ならし机によれば、春の日はてふ鳥に心うかれて過ぎ、秋の夜は虫なきていとねぶたし。かくてぞ老曾の森の草、かりそめの人のやくそくも、小指を結び手のひらにしるしても、行水の數かくはかなさ、人もわらひても罪ゆるしつべし。さればその翁のいへりける、身のとり所なきを思ふに、若きにかずまへられしほどは、人やりならずはづかしかりしが、つんぼうの雷にさはがず、座當の蛇におどろかざるこぼれ幸なきにもあらず。よのつねきゝわたる茶のみ語りも、はじめ聞ける事の耳にのこらねば、世に板がへしといふ咄ありて、またかの例の大坂陣かと、若き人々はつきしろひて、小便にもたつが中にも、我は何がし僧正のほとゝぎすならねど、きくたびにめづらしければ、げにときくかひある翁かなと、かたる人は心ゆきても思ふべし。ましてつねづね手馴れ古せし文章物がたりの双帋も、去年見しことはことし覺えず、春よみしふみは秋たどたどしく、又もくりかへしみる時は、只あらたなる文にむかふ心地して、あかず幾たびも面白ければ、わづか兩三帙の書籍ありて、心のたのしみさらに盡くる事なし。むかし炎天に腹をさらしたるおのこは、人にもおりおり物をとはれて、とりまがはしいひたがへじと、いかにかしましき心かしけん。今は中々うれしき物わすれかなとぞいひける。猶かの翁が家の集に、何の本歌をかとりけるならむ、
わすれてはうちなげかるゝ夕べかなと
物 覺 え よ き 人 は よ み し か
文章中,色を変えた部分が安田登さんが読み上げた部分。
げにとき(聞)くかひある翁かと
聞き上手なおじいさん,これが也有のすごさです。
もう1つは,昨日読んだ本も今日忘れているので・・・
わづか両三帙の書籍ありて,心のたのしみさらに尽くる事なし。
「帙」(ちつ)は本のカバーのようなもの。本も数冊あればいい。
最後の和歌・・・
わすれてはうちなげかるゝ夕べかなと 物覚えよき人はよみしか
前半「わすれてはうちなげかるゝ夕べかな」は新古今和歌集から式子内親王の
忘れてはうちなげかるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を
から本歌取りをしています。
物覚えがいい人は,こんな歌を詠みましたけどね。
前回の「おけらじいさん」に続き「忘れんぼじいさん」のすすめ。
もちろん,この物忘れは老人性の認知症が原因でも健忘症などの病気が原因でもありません。
生まれつきの物忘れ。そんなおじいさんです。
そんな人いるのか!? と思ってしまいますが,これは極端な話をしているのでしょう。
つまり,「おけらじいさん」同様,記憶というこだわりを捨てたときに,人間楽しく生きられるのではないでしょうか。
この記事へのコメント
あれまあ、なんでしょう…、これもまた私自身の事を言われているみたいで、終始苦笑しながら読んでいました。ええ、私も生まれつきの物忘れじいさんです(笑)
でも、先生もおっしゃってくださっていますね、『記憶というこだわりを捨てたときに,人間楽しく生きられるのではないでしょうか』って…
正にその通りだと思います。忘却は人間にとって大事な”安全装置”です。これが働ないと、私なんぞ、もとっくの昔に慚愧と後悔で首くくってます(笑)
些末な事ですが、ちょっとだけ「帙」の説明に補足をさせてください。
「帙」とは、本来の姿は数巻が組になった和綴じ本など、書籍をひとまとめにしまう為の箱や巻き簀の事です。一般的には厚紙で出来た箱の様になっていて、とじ紐が付いている造りのものが多いのですが、木の板などで出来ていて挿んでしまうものも有ります。また、蓋が無い厚紙の”鞘”状になった物も帙と呼ぶことも有ります。
おはようございます。
私もいつまでもつまらないことを覚えておくのは嫌ですぐに忘れることにしています。それにはどんどん新しいものを読んだり知ったほうがいい。天才じゃないんだから記憶の量は決まっているはず。
「帙」の説明ありがとうございます。私は雑にカバーのようなものとしてしまいました。